Cufflinks
第一話・焔 第三章・4
翌日、ハイヤーの運転手と午後二時に顔を合わせた。うやうやしく差し出された免許証には、稲見からの電話で伝えられた氏名があった。運転手は帽子をとり、顔写真と見比べるように言った。
ルームミラーに映る春樹の顔色が冴えない。今日の服は壬のドレスシャツと薄手のベスト、制服に似たシルエットのパンツだった。塔崎が相手なら金も私物も隠すことはない。ベストと同系色のバッグが車窓を通る陽の熱を吸収する。
死ぬ気になれば何でもできるというが、実際は違う。怖いものは怖い。気色悪いこともしたくない。新田を思うと涙が出そうになる。
逃げ出したくなる気持ちを抑えるうちに、見覚えのあるホテルに着いた。ハイヤーの運転手が車外に出て深々と頭を下げる。ドアボーイも瞠目するほどの大仰な扱いに、春樹は下を向くしかなかった。
高層階にあるロビーに着くと、前回と同じ従業員が歩み寄ってきた。左胸の名札にはコンシェルジュを意味する単語と氏名が刻まれている。春樹を見る目の奥に、あのホモが買った子か、と書かれている気がしてならない。
(気にするな。本当のことじゃないか)
塔崎は危険なことはしない。伊勢原のように帯で縛って放置したりしない。ホテルには迷惑かけないから安心しろと、心の中で毒づいた。
従業員に案内されて着いた先はエレベーターホールだった。
「専用ラウンジにご案内いたします」
静かで衝撃のないエレベーター内の、階数を示す数字がどんどん大きいものになっていく。
ホテル自体が高層階を占めてはいるが、高すぎる。四十階を過ぎ、五十階手前の階でとまった。
「本日ご予約いただきましたお部屋のキーをお持ちします。特別室でございますので、チェックイン、チェックアウト、外部からのお取次ぎなど、すべてこちらのラウンジにご用命ください」
ラウンジ最奥、窓側の椅子が引かれた。ぎくしゃくした動作で腰を下ろす。どこから現れたのか、女性従業員が小振りのテーブルに紅茶を置いた。特別室という言葉が引っかかるが逃げ場はない。
紅茶の湯気が消えるのを見はからったようにコンシェルジュが来た。立とうとしたが笑顔で制され、ティーカップの横に革製のトレイが置かれる。カードキーと名刺が乗っていた。
「お部屋のキーと私の名刺です」
専用ラウンジより上にある部屋に着いたころには、汗で名刺が湿っていた。
特別室には玄関があった。靴箱はないがクローゼットがある。
「靴のままお上がりください」
「ほ、ホテルの部屋に、玄関が」
つぶやいてしまい、咳払いをした。玄関、廊下、室内と灯りがつくにつれ、従業員が着る黒のスーツが映える。
「私どものスイートルームには、すべてエントランスホールがございます」
玄関をエントランスホールと言う従業員に向かって、素っとん狂な声をあげてしまった。
「スイートルーム?!」
「さようでございます」
廊下の奥にはリビングルームが広がる。リビングとベッドルームの間には施錠できる個室が二部屋あった。
「あっ、あの。塔崎様は……?」
「大切なお食事会にご出席されているそうで、少し遅れるとおっしゃっていました」
従業員が案内を続行する。バスルームも広い。前に使った部屋の三倍はある。簡易洗濯機と乾燥機、DVDが見られるテレビも健在だ。脱衣所には大きな衣類棚があるのだが、カゴが見当たらない。
「あのっ、脱衣カゴは?」
訊いてから後悔した。スイートルームで脱衣カゴを気にする人などいない。
この部屋を予約したのは少年が好きな変態です。変態に服を触られたくないので持ち運びができる脱衣カゴが欲しいのです。
塔崎の性癖を知っていてもカゴがどうしたと思うだろう。従業員の人当たりの柔らかい顔の下に、疑問が透けて見えた。職業意識が高いのか、マイナスの疑問は瞬時に微笑みで覆われた。
「こちらにお越しください」
従業員は笑みをたたえたまま個室のひとつを開けた。ライティングデスクと椅子の他に、クローゼットがあった。クローゼットは春樹の寝室のものより奥行きがあり、カラメル色の籐カゴがある。取っ手もついていた。
「脱衣カゴも兼ねております。ご自由にお使いください」
カゴには大小のビニール袋がある。私物を全部入れて運ぶことができそうだ。ガウンがあるのでここで着替えることもできる。個室の鍵をかければ、誰も春樹のプライバシーに触れられない。
「なんなりとお気軽にお申し付けください」
足音をたてることなく、従業員が出ていった。
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