Cufflinks
第一話・焔 第三章・4
広いリビングでひとりになってしまった。ソファに腰を下ろす。安っぽい音もしないし体が沈みすぎない。ソファカバーを季節に合わせているのか、軽く爽やかな風合いだ。自然にくつろいでしまう。
スイートルームなど初めて入るが、どことなく家庭的な内装だった。リビングも含めて木目の美しい家具が多く、窓も巨大ではない。普通の家のように壁をくり抜いて窓がある。一面すべてガラスが占める部屋はなかった。
豪華だが萎縮することなく過ごせる部屋を用意した。たった数時間のために。金に飽かしただけなのだろうか。
エントランスから呼び鈴の音がした。服を整えて急ぐ。
従業員に礼を言った塔崎が、ひとりで足を踏み入れた。
「仕事の食事会で、道も混んでいたから焦ったよ。遅れてごめんね」
上質なスーツを着ても垢抜けない印象は変わらない。忙しく汗を拭くのも好きになれない。
好きにはなれないが、目を見て話したくなった。
「どうしてこんなに素敵なお部屋を……?」
二の腕に塔崎の手が触れる。塔崎は頬をピンクに染めていたが、いやらしい笑顔ではなかった。
「先日のお礼状、胸を打たれたよ。次に会うときは恥ずかしくない部屋をと決めていた。食事会の終わる時間がはっきりしなかったので、先にホテルに入るきみに少しでもくつろいでほしくて……ホテルらしくない部屋で気を悪くしたかな」
首を横に振って真っ直ぐ塔崎を見る。頭の奥の声に頼らなくても、するすると言葉が出てきた。
「スイートルームがこれほど落ち着けるなんて知りませんでした。ですから、どうか無理に急がないでください。塔崎様が事故にでも遭われたら……僕、は……」
語尾が震えそうになった。本心に近いものがあった。信じがたいことではあるが。
「少しの間お休みだと伺っていた。元気なきみの顔を見られるだけで充分と思っていたのに、きみの優しさはこれまで以上だ。シャワーを浴びてくるから、待っててね」
ハンカチを握りしめた塔崎がバスルームに向かう。待っててね、を繰り返す。腿の裏がうっすらと粟立った。体が拒否しているのは事実だ。
春樹はリビングの一角に行った。廊下側の隅にバーカウンターがある。明るいブラウンの木材と大理石でできており、この部屋の中で唯一家庭的でない箇所だ。カウンター内を片っ端から見て、冷蔵庫を開ける。
塔崎は財力を見せつけるタイプではない。春樹にくつろいでほしいという言葉に嘘はないだろう。春樹にできることは高が知れているので、気の利いたソフトカクテルでも作れないかと思った。
ミネラルウオーターと氷を出してみる。塔崎は酒を飲まない。アルコールを避けたいのだが、並んだ瓶を見ても自信をもって見分けられない。見慣れない炭酸飲料があったので開けてみた。炭酸の刺激はあるのに味がしない。もしかしたらこれで他の飲料を割るのだろうか。
バスルーム内部の扉が開く音がした。塔崎が脱衣所に出たようだ。
考えあぐねた末、持ちやすそうな形をしたグラスにミネラルウオーターと氷を入れた。
脱衣所の扉も開く。室内履きの静かな音が近づいてくる。水と氷しか入っていないグラスの他に、アルコールなのかもわからない瓶、一度蓋を開けた味のない炭酸飲料などが散乱していた。
感謝の念を伝える飲みものすら用意できない。男娼というより、人としてできることが少なすぎる。
カウンターの内側で突っ立っている春樹に、塔崎が小首をかしげて言った。
「喉が渇いたなら何か頼もうか」
グラスを手にした春樹がカウンターの外に出た。ソファの前にあるテーブルにグラスを置く。
「飲みものをご用意したかったんですけど、作り方がわからなくて……散らかしたのにお水しかお出しできなくて、ごめんなさい……」
塔崎はリビングの隅に目を移した。苦心の跡がみられるバーカウンターを、次に春樹を見る。
中年男の薄赤い顔が無心の輝きに満ちた。
塔崎に手をとられてソファに腰を下ろす。塔崎は春樹の手を撫で回すことなく、膝を突き合わせてきた。
「ルームサービスで頼めるのに、きみは自分で用意しようとした。嬉しいよ、ありがとう」
おいしい、を連呼してただの水を飲む塔崎を前にしても、肌は粟立たなくなっていた。
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