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第一話・焔 第三章・4


「おいしそう! 壬さんが作ったんですか?」
 壬の店の従業員控え室で、春樹が感嘆の声をあげた。作業台の上には二段重ねの重箱があり、中はデパートで売られるおせち料理そっくりだ。小さくうなずいて湯呑みを置く壬の笑顔は、少しも気取っていない。
「埃っぽくてごめんね。近くにケータリングの店があるんだけど、土日はやってなくて。スタッフも好きにつまめるように、週末は適当に用意するんだ」
 確かに所どころ空いており、箱の内側の朱色を覗かせている。取り分けてくれただし巻き玉子は軟らかく、おいしさが広がった。現金なものだ。先ほどまで新田を忘れたことを恥じていたのに、優しい風味が口中を満たしたら顔がほころんでしまった。
「おいしい。すごい。僕、家事は全然だめなんです。味噌汁も作れない」
 だめなのは家事だけではないが、壬の料理は春樹にうつむかせる暇を与えなかった。味がいい。味だけではない。見た目も既製品と変わらない。
「元気よく食べてくれるね。ありがと。いつも余るから助かるよ」
 たわら型のおにぎりを頬張る春樹は、胸を叩きながら茶を飲んだ。
「た、足らなくなっちゃいませんか?」
「大丈夫。あ、ちょっとごめんね」
 壬がノックに気づいて内扉を開ける。扉のすき間から従業員と短い会話をした。壬もつまむ程度に食べてはいたが、腰を落ち着けての食事ではない。内線電話も数回鳴ったし、一度は店内に戻った。
 平日はケータリングで土日は手製の弁当ということは、従業員は別として壬は店を空けないのかもしれない。援助を受けているとはいえ、ここは壬の店だ。責任感と情熱をもって働いているのだろう。
 新しい茶を持ってきた壬に、春樹は深く頭を下げた。
「なに? もっと食べていいよ」
「お腹いっぱいになりました。忙しいのにごめんなさい。服も買わないで」
「来られて困るなら断るよ。ほんとに遠慮しないでね」
 親しみやすい笑顔に誘われて顔を上げる。居住まいを正して、本題に入った。
「三浦勇次さんって、知ってますか? 打診……されてるんです」
 壬の目もとから笑みが消えた。春樹を見据えながら茶をひと口すする。
「知ってるよ。ボンボンで羽振りがいいからね。僕は酒の席に一回同席しただけだけど」
「一回だけ……? 何かあったんですか?」
 すぐには答えず、壬は電話の子機を手にした。電話をつながないように指示して扉の鍵をかけ、ブラインドも閉じた。椅子を春樹に近づけて腰を下ろす。
「何も。気前よく遊ぶし陽気な男だけど、ちょっと得体の知れないとこがあって。高岡が言ったの? 三浦勇次がどんな男か、僕に訊いてみろって」
 うなずくだけにした。この店は粥川も知っている。三浦兄弟との一夜を話して壬をトラブルに巻き込むことはできない。
「僕の周りであの男と寝た子はいないから、あっちの様子はわからない。クスリ売ってたからそれ目当てで近づく子もいたけど、分けてもらえる子はほとんどいなかった。自分をコントロールできない、金もない子には分けない主義。だから事故もない。ただ、ああいうのは厄介だよ。飲むだけでも人を選ぶ」
「人を選ぶ……」
「外見や性格じゃない。肌っていうか、呼吸が合わないと寝るのはきついと思う。サディストだしね」
 春樹が見た勇次の世界を壬も読み取っていたようだ。独特な、動物的なものがあると。
 壬の肘が作業台に乗る。頬杖に似た格好であごと唇を触り、何か考えている。少しの間をおいて、壬が作業台の引き出しを開けた。取り出したものは小型の防犯ブザーだった。
「あげる。小さい割に音は派手だから、試すのは誰もいないところでね」
 客と会う際に緊急避難用の現金を隠し持ちはしたが、防犯用品は初めて触る。急に怖くなった春樹の手にブザーが握らされた。
「三浦勇次には兄がいる。背ばっかり高い、眼鏡の男。手に負えないサディストで、不具者や行方不明者を出したって噂もある。弟だけとなら大怪我しないと思うけど、他に誰かの影を感じたらすぐに逃げて。素っ裸でも。いい?」
 強く、はっきりと首を縦に振った。三浦勇一は血の冷たい爬虫類だ。ばかな犬だと見下げていたため性的な意味では春樹を欲しがらないだろうが、暴力はベッド以外でも振るうことができる。次こそ指を折られるかもしれない。三浦の犬のようにされる可能性もある。
 防犯ブザーを見つめる。視界が明るくなり、カーブを描くプラスチックが手の中で光った。
 ブラインドを上げた壬が窓を背に立っている。わずかに逡巡したようだが、真っ黒な瞳を動かさずに口を開いた。
「これも噂の域を出ないけど────」
 一言一句聞き漏らさないよう、春樹は全神経を集中させた。


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