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第一話・焔 第三章・4


 高岡の車内で通話ボタンを押した。呼び出し音がしてすぐに壬のやわらかい声がした。
 勤務中なので当然なのだが、店名で応対されるとまごついてしまう。店で買い物をする予定はないからだ。
「あの、僕です。この間はありがとうございました。あの……えっと……」
 電話を持ち直すような音がした。通話口をふさいだのか、店内の音楽が小さくなる。ふたたび壬の声がしたときには、周囲は静かになっていた。
「店に来てくれるの? 今どこ?」
「高岡さんの車です。相談……したいことがあって」
 車は壬の店の方角を目指していた。要領を得ない春樹を壬がリードする。
「もう二時になるね。食べながら話そうよ。お昼食べちゃった?」
 まだですと答えると、高岡に安全運転で来るよう伝えろと言われて電話を切られた。壬の声が漏れたようで、高岡はにやにや笑っていた。
「お昼、壬さんと食べることになりました」
「それは助かる。育ち盛りの仔犬ちゃんにおごらずにすんだ」
 壬の店は雰囲気もいいし、緑豊かな中庭も好きだ。くしゃっと笑う壬の気さくな笑顔は、店や中庭よりも好きだ。
 私用ではなく、勇次の情報を得るために行くことが気分をふさがせた。
「背中の傷を診てもらうまで何をしていた」
 陽射しを浴びる高岡が、嘲笑を含まない声で言った。うつむくばかりの春樹に気づいたらしい。
「稲見さんに……心療内科のクリニックに連れてってもらいました」
「そうか。受診したと新田に報告したか」
 目の後ろで星が散ったようになった。何者かに頭を打たれたというべきか。フロントガラスを凝視する。
 新田に何も言っていない。新田を安心させるために受診したのに、まだ電話していなかった。メールすらしていない。
 クリニックの次に雑居ビルの医院に寄ったあと、何をしていた? 高岡を捜した。あてもないのに捜して歩いた。
 煙草を吸う黒い髪の長身の男がいないかと、カフェを覗いた。駆ける子どもたちにつられて公園に向かった。
 新田を忘れて高岡を捜していた。
「元気がないな。酔ったか」
「酔ってません」
 即答し、サングラスに向かって作り笑いを浮かべる。淡い色の奥にある双眸はいぶかしんでいたが、春樹は前方に視線を移して口角をさらに上げた。
「修一に電話したけど留守電でした。吹き込みにくいし、メールで伝えるのも変だから。帰ったらまた電話してみます」
 へらへら笑って嘘を重ねた。高岡が春樹の言ったことを信じたとは思わないが、追求する気はなさそうだ。
 乱暴な運転をすればいいのに。エンジン音を楽しみ、度が過ぎたスピードで怖がらせてくれないだろうか。事故にあうことより、新田を忘れていた自分が怖い。
 うるさいと叱責されれば何も言わずにすむ。言葉を繰り出したいのだが、ただでさえ少ない語彙は引っ込んでいた。頭の奥の妙な声も鳴りをひそめている。仕方なく絞り出した声は、いつも以上に弱々しかった。
「つぶれそうなくらいに胸が痛いのって、心療内科で治るのかな」
 街路樹が多い道に差しかかる。若葉が切り取る光が車内に降りそそいだ。小さくて頼りない春樹の言葉など、独り言として無視されてもおかしくはない。
 返答を期待していなかった春樹に、高岡は思いもしない問い返しをした。
「お前は治そうとして受診したのか」
 運転席を見る。病院は病気を治すところだ。そもそも高岡はクリニックに行くことに賛成したはずだ。
「新田のための受診だと思っていたが。違ったのか」
 病院に行こうと思ったのは新田のためだと、察知されていた────
 高岡の別邸で春樹の弱さを知っても高岡は叱らなかった。正しいとはいえない受診動機を悟っても、とがめなかった。今も否定しようとしない。心を見透かされているようで、ますます選ぶ言葉がなくなる。
「それは……そうですけど」
「家族でもない新田がメンタルケアを勧めた。勇気が要ったろうな」
 色のない万華鏡に似た光と影が、高岡の横顔を滑っていく。
 精神的な疾患を疑って病院へ、とは、簡単に口にできることではない。好きな相手でも他人に言うのは怖いだろう。好きだからこそ嫌われるのではないかと怯える。春樹なら怖くて言えないに違いない。
 新田は春樹に嫌われることを覚悟で言ってくれたのだろうか。
 車が路肩に寄った。助手席ドアのロックが外され、後部座席に置いたバッグを渡される。
「着いたぞ。降りろ」
 少し先に砂を被ったようなオレンジ色の壁が見えた。塀にツタが這っている。壬の店の近くまで来ていたのだ。
 春樹がガードレール近くに移動すると高岡は窓を下ろした。サングラスを外し、まぶしそうな目を春樹に向ける。
「帰宅したら必ず電話するように。新田を逃がすな」
 同乗者を乗せない高岡の車は、いつもの強引な運転で離れていった。


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