Cufflinks
第一話・焔 第三章・4
ベンチのひとつに男が座っている。
艶のある髪が黒い。煙草の煙はないが、ふてぶてしさが滲み出る後ろ姿だった。
足が急に後ずさった。落ちた枯れ枝を踏んでしまい、乾いた音がした。
茶灰色の瞳がこちらを向く。切れ長の目が細まり、眼球に反射する陽の光が煌めいた。
「お散歩か、仔犬ちゃん」
耳に馴染んだ、人をからかう声だ。腹立たしいはずなのに、探していたのはこの声だと感じた。
これ以上感情が動くのが怖い気がして、踏んだ枝に視線を落とした。
「背中の傷を診てもらいました。手、治ってきてますか」
「心配してくれるのか。抜糸も済んだ。大丈夫だ」
「心配なんかしてません」
端整な顔が笑顔になる。子どもの歓声がするほうを眺めながら「昼食は」と言った。
「まだです」
「食べたいものはあるか。買ってやる」
高岡が立ち上がる。風になびく前髪に、わずかな癖がある。先週の映像が繰り返された。
三浦勇次の髪にも癖があった。粥川を信用するなと言われた日だ。あの日も風があり、勇次の前髪がそよいでいた。
夜の世界で生きる高岡なら、勇次の真意がわかるかもしれない。
「……ご飯、後でいいです。相談に乗ってくれませんか」
高岡は春樹を見たままベンチに腰を下ろした。自分の隣を指す。
「いいだろう。座れ」
一礼してから指差されたところに座り、勇次との会話を高岡に話した。
勇次に二度目を望まれている。社の客を介するつもりで、無理強いはしない口ぶりだった────
相手は春樹の口に放尿した男だ。女性に好かれそうな甘さのある外見だが、やることは兄である三浦勇一と同じで身勝手極まりない。暴力も振るうし、変な薬物も扱っている。できることなら関わりたくない。
春樹がすべて打ち明けた後、ライターの蓋が開く音がした。高岡が遠くを見ながら煙草を吸う。煙草の先から紫煙が細い線を描いて流されていった。
「お前はどう思う」
高岡の顔を穴が開くほど見てしまった。三浦兄弟の蛮行を高岡は知っている。勇次が催淫剤を打ったことで、春樹の意識は難なく混乱に陥った。三浦に犯され、春樹にしか見えない溶鉱炉に容易く落とされた。
意識が戻った春樹はパニック状態で自分と高岡に包丁を向けたのだ。
あんなことがあったのに、この男は勇次との接触をとめようとしない。
信じられないという思いが伝わったのか、高岡が目だけで春樹を見る。この話題にも勇次の存在にも、無関心だというような顔だった。
「一度肌を合わせた相手だ、得たこともあるだろう。大きな危険があるように思うか」
ここで高岡を批難しても何にもならない。毒餌の見分け方を知るためだ。感情をしまえ。
勇次の言動を思い返す。三浦より高い体温から伝わったことと、この公園で言われたことを拾い集めた。
「大きな危険は……ないと思います。すごく譲歩してるっていうか。薬は使わないと言うけど信じる気にはなれないし……でも、なんていうか」
「嘘をついているとは思えない、か?」
春樹はうなずいた。勇次は自由な男だった。三浦の行為はレイプという言葉がそのまま当てはまるが、勇次は違う。
痛みも嫌悪感もあったが、じゃれているようでもあった。
互いの肉体が放つ匂いや熱を奪い、分かち合うところがあった。動物が交尾の前に踊るダンスみたいだった。言葉が要らない代わりに嘘があれば見抜かれる。ベッドで楽しむ勇次から、そんな性質を嗅ぎ取っていた。
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