Cufflinks
第一話・焔 第三章・4
三叉路の角に立ち、雑居ビルを見上げる。風で飛ばされた街路樹の葉が顔に当たった。
寄りたいところがあるからと、クリニックの駐車場で稲見と別れた。クリニックから雑居ビルの医院までは、公共交通機関を使っても歩く距離がある。雑居ビルの最寄り駅からが長い。
三叉路につながる長い道を歩く間、思い出していたのは先週の一夜だった。高岡の別邸に泊まった夜。
布団の中で妙なことが気になり、なかなか寝付けなかった。リビングが五十畳なら和室は二十畳だ。ふすまを閉めて十畳ふた間にしてもいいと言われたのでそうしたが、家具がない十畳の和室は広い。何もしないという口約束を気にしているとは思えないが、高岡はひとりで自分の寝室に入っていた。
頻繁に寝返りをうった。まぶたを閉じると夜の庭に咲くシバザクラが浮かんだ。
シバザクラの前の高岡は普段と少し違った。春樹の膝が完全に伸びる前に、春樹の腕をつかんだのだ。
行くな、というような、そんな動きに思えた。気のせいかもしれないけれど……焦っている感じがした。
(そんなことあるはずない)
高岡の別邸が広すぎたからだ。修学旅行でしか寝たことのないような、広い和室にひとりでいたからだ。
目が覚めたときに────シバザクラの前で高岡につかまれた腕に顔をうずめていたのも、ただの偶然だ。
「坊や、終わったぞ」
春樹の背後で金属音がした。直腸の傷を診る器具がトレイに置かれた音だった。
雑居ビルの医院は日当たりが悪い。診察台の脇には、五月だというのに小さな電気ストーブが置かれていた。
「服を着て椅子に座れ。風邪ひくぞ」
尻たぶが陽気な音をたてて叩かれ、医師が大きな声で笑った。
ごま塩頭は刈ったばかりなのかツンと立ち、四角い顔は血色が良い。医師は手を洗うと机に向かった。衝立の向こうから椅子がきしむ音と野太い声がした。
「背中は他でも診てもらっているようだな。薬が塗ってあるが、もう要らん。できるだけ乾燥させろ。ケツは問題ない。今夜からでもやっていいぞ。ただし無茶はするな」
顔や耳どころか、つま先まで熱くして衝立をずらした。春樹が腰を下ろした黒い丸椅子は、医師が座る椅子と同じ鈍い音をたてた。
「ほんとにもう、いいんですか」
カルテに書き込む医師が横目で春樹を見る。
「若いな。やりたいか」
答えずに下を向く。客とのことではない。復帰すると決めた以上、社が選んだ客には従わなければならない。
知りたいのは、新田との可能性だった。
「無茶しなければ……慣れていない、男としたことがない人とでも……大丈夫ですか?」
医師はボールペンを置き、椅子を鳴らしてこちらに向き直った。いぶかしそうな目つきだった。
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