Cufflinks
第一話・焔 第三章・4
ホテルの駐車場に向かう間、春樹はバッグをしっかと抱いていた。
帰り支度を終えた春樹に、塔崎はホテルのエンブレムが箔押しされた封筒を手渡した。封筒の厚みにたじろいだが、手を握られ、バッグにおさめるよう言われたのだ。
百万円は入っている。
一万円札が百枚集まったものを持ったことはないが、勘がそう言っている。前回の二十万円とは感触が違う。
早く稲見に預けてしまいたかった。
社用車がホテルの外周に出た。稲見は無精髭こそないが、くたびれた空気に覆われている。
「あの……これ……」
信号停止のときにホテルの封筒を稲見に渡す。少しして、稲見の大声に耳をふさいだ。
「八十、九十…………百万!! 百万あるよ! どうしたの!!」
「中は見ないで受け取ってと塔崎様が……帰り際に。ど、どうしましょう」
持ち運んだことのない大金を一度のセックスで手にしてしまった。寒くもないのに総毛立つ。
青信号に従わない車にクラクションが浴びせられた。信号で停まる度に、稲見が札束の上下をひっくり返して数える。青白く見えた頬には赤みがさし、目は血走っていた。
「預かっていただけませんか。もしも家政婦さんに見つかったら」
「きみ名義の口座が開設された。通帳は後日渡すから、それまで隠しておきなさい」
「でっ、でもこんな、百万円なんて多すぎます」
「何とかなるよ。いやしかし、やるねえ」
感心する言葉が金額と反比例して軽い。反論しても無駄と悟り、返された封筒をバッグの一番下に入れた。
法外なチップが効いたのだろう、稲見の目は明るくなっている。機嫌が悪いようにも見えない。昨日の妙な電話の件を訊くなら今だ。
「どうして急に引越しを? 稲見さんの送迎じゃないときはハイヤーって……」
返事はすぐにはなかった。運転する顔が心持ち険しくなっていた。
「接待の仕事をする子がひとり、怪我で入院した。安全のための策だよ」
薄氷の幕が下りそうだった。よく見ると稲見の目の下にはクマができている。
「話すと長くなる。お茶でも飲もう」
喫茶店で稲見は二本目の煙草を取り出した。
春樹の前にあるホットミルクティーは冷めきっている。
話はこうだ。
一昨日、金曜の夕方に男娼がホテルに送られた。客は急用ができたからと、男娼を残してホテルを出る。
部屋を好きに使っていいと言われた男娼は、遊び仲間を数人呼んだ。仲間が部屋を訪ねたのが金曜の夜九時近く。
男娼はいなかった。チェックアウトもされていた。
仲間のひとりは、借りていたCDを返したいので一旦自宅に戻るというメールが、六時ごろに男娼からきたという。
メール送信後に気が変わって、遊び場を変更するためにチェックアウトしたのだろうと、仲間は気にとめなかった。
日付が変わり、仲間が男娼の自宅を訪ねるが留守だった。連絡もとれなくなっていた。
そして今朝早く。都内にある風俗店の近くに男娼が放置されていた。
「頭を強打したらしくてね。意識はあるけど面会できない状態だ」
「ど、どうして、その、風俗店の」
「きみは我が社との専属契約だけど、社外の店に籍を置く子もいる。客とボーイを引き合わせる店だね。怪我をした子もボーイだった。放置されたのは彼が働いていた店の裏だ」
灰皿に灰が振るい落とされる。かたむけたコーヒーカップは空のようだ。
「金曜は彼を担当していた社員が急な休みで、粥川がホテルまで送ったんだけどね」
「粥川さんが……?」
頭を掻く稲見がため息をついた。短くなった煙草を消して腕を組む。首を回しながら椅子に深く座った。
「僕らが休むとき、きみたちの個人情報は代わりの社員に知らされていた。これからは知らされなくなるし、社員間での代行送迎自体が禁止になった。引越しが可能な子はセキュリティのしっかりしたところへ移動させ、新住所は担当社員のみが管理する。友達を部屋に招いてもいいけれど、何人もの子に知られないようにね」
交友関係まで管理されるのか。監視カメラや盗聴器よりはましだが、歓迎はできない。
春樹は黙ってカップに口をつけた。冷めたミルクティーはくどい甘みで、ひと口だけで皿に置いた。
稲見の指がテーブルを叩く。長い沈黙のあとで発せられた声は、小さくて低かった。
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