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第一話・焔 第三章・4
クリニックの受付カウンターに卓上カレンダーが乗せられた。
会計時にカレンダーを落とした患者が詫びている。大丈夫ですよと言われたようだが、何度も頭を下げて出ていった。
高岡の別邸を訪れてから一週間。今日は風が強く、陽射しはあるが正午近くになっても暖かいと感じない。
院名の横に精神科・心療内科と書かれたドアも気分を重くさせていた。
「春樹くん。どうだった? カウンセラーと先生の印象は。嫌な感じした?」
長椅子に座る春樹に稲見が声をかける。言葉の後半は小声だった。腰を下ろせばすぐに煙草を探る稲見だが、今日は探ろうとしない。
「初めてだから何とも……別に嫌な感じはしませんでした」
新田を安心させたい一念での受診だ。不満は口にできない。稲見にもこれ以上迷惑をかけたくなかった。
春樹から受診希望の電話をした際、稲見は症状を一切訊かなかった。高岡の怪我についても話さない。無関心なのではない。稲見なりの配慮だとわかる。
「とりあえず通ってみようか」
脚を組んでそう言った稲見の声が、少し明るくなった。
「こちらの院長は我が社の社医と同郷でね。優秀な方だよ。カウンセラーも臨床経験豊富な方だし、不登校や摂食障害……若い子の悩みに強い。この手のところは診る側との相性があるから、合わないと思えば遠慮せずに言いなさい」
春樹は力なくうなずいた。
ここは評判が良いのか、待合室にいる人も少なくない。受付の電話もよく鳴る。土曜の正午だから受診を終えて会計を待つ人の方が多いが、受診前の人も何人かいるようだ。
院長とは数分しか話していない。内科的な、簡単な健康診断に似たことをされて体調を訊かれただけだ。カウンセラーは女性だったが、訊かれたことは生い立ちが中心だった。
どんな両親か、小さいころの思い出、家族との死別はあるか、食事は家族と一緒に食べるのか。
クリニックは秘密裏に社と通じている。仕事上の悩みも隠さなくていいと言われていたが、すっきりした眼鏡が似合う女性カウンセラーを前に、母を愛人とは呼べなかった。
母は他界しました、父とは会ったことがありませんと答える度に「つらかったですね」「寂しかったでしょう」と言われる。穴だらけの生い立ちを話し終えると、大きな溜め息が出てしまった。溜め息と共にカウンセリングも終わった。
元気がそぎ落とされる会話ばかりで、黒いモヤについては何も話せていない。
春樹を苦しめ新田を驚かせたものは、胸に巣食う大きな黒いモヤだ。胸が鋭く痛んで呼吸ができなくなる圧迫感を、精神的なトラブルを扱うところで治せるのだろうか。
「…………くん、春樹くん」
稲見の声がした。いつからしていたのだろう。
春樹はせわしくまばたきした。笑顔を作る前に顔を覗き込まれてしまった。
「ごめんなさい。ぼうっとして」
「睡眠はとれているんだろうね。眠れないなら言ってくれないと困るよ」
「大丈夫です。ほんとに、ごめんなさい」
稲見は春樹を真顔で見てから、先ほどより小さな声で言った。
「本当に復帰するんだね。休みはまだあるから無理することはないよ」
春樹はうなずき、バッグから診断書を出した。昨日、学校の帰りに行った病院で書かれたものだ。伊勢原に犯されたときに行ったところで、鞭の傷を診てもらった。
「傷は少しの間痕になるけど、痛まなければ大丈夫だと言われました。傷を嫌がるお客様だと困るかもしれませんが」
小声で話す春樹の顔を稲見が見る。笑みのない、厳しい表情だった。
「ここへの通院を含めて、ケアを怠ってはだめだよ。自分を大切にできない者に接待など不可能だからね」
「はい」
今でも反抗心はある。自分を大切にする人間は売春などしない。
それでも進まなくてはならない。今できることを、するしかないのだ。
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