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第一話・焔 第三章・3
煮込みハンバーグを新田はふたつ食べた。茹で野菜も白米も味噌汁も、残さずたいらげた。うまかったと言って笑う新田を見て、春樹の心に灯りがともった。
ダイニングテーブルを飾る花はカスミソウと小輪のガーベラだった。スーパーの生花コーナーでも取り扱う、気軽に買える花だ。花だけは春樹の小遣いで買った。体を提供しての報酬ではない。
三月までの、男とのセックスを知らなかったときまでに貯めておいた小遣いで用意した。
新田はカスミソウが痩せ地を好み、株分けもできるのだと教えてくれた。
「小さい花はみんな種で増やすんだと思ってた。一年で終わるんじゃないんだ」
ソファに並んで座る新田に唇を求められた。あたたかい唇が心地良い。閉じたまぶたを、そっと撫でられた。
「カスミソウにも種をまく一年草と、株分けするものとがあるんだ。ピンクや赤いものもある」
「白だけじゃないの? 色付きだと花束にしたり花瓶に活けたら、他の花と喧嘩しない?」
「喧嘩しないようにアレンジしたり、最初から鉢植えや花壇用にする。カスミソウって、何となく脇役みたいだって思ってなかったか?」
「思ってた……」
カスミソウも可愛い花だ。花屋では必ずといっていいほど見かけるし、園芸クラブに入る前から知っている。だが、派手さには欠けると思う。
「カスミソウの群生した姿は、名前のとおり一面の霞だ。白い花は霞か、薄くて透けそうな雲がたなびいてるみたいだ。淡いピンクの花も幻想的で、見る時間、当日の天候で色彩が変わる。紫がかって見えたり、桜貝のようだったり」
新田の顔を見る。茶色の瞳が、揺らぐことなく春樹を見ていた。
「小さいころ、植物学者になりたかった。一日じゅう野原にいられると思ってたから。この話するの初めてだ。相手の予定も訊かずに泊まりたいと言ったのも。春樹、わかるか? お前だからなんだ。俺の気持ち、わかってくれるか……?」
「わか────」
胸の真ん中から黒いモヤが噴出した。
恐ろしい勢いで肺を内外から押し潰す。胸が痛い。息ができない。
「……春樹? 大丈夫か。背中が痛いのか?」
「ち、が……胸が……」
胸部全体が巨人の手で握られているとしか思えない。焔の熱で呼吸ができないときとはわけが違う。
冷や汗と脂汗が同時に滲んだ。ソファのアーム部分に片手を伸ばし、もう一方の手でシャツの前をつかむ。
「春樹! おい、しっかりしろ! 春樹!!」
「…………た……か」
目を見開き、両手で口を覆った。考えなしに呼ぼうとした名前を封じ込める。
「春樹、春樹! 気分が悪いのか? 何か持ってくるから待っ」
「行かないで!!」
新田の腕を強くつかんだ。抱えるように引き、追いすがった。
「いか、行かないで。ここにいて。抱きしめて……!」
「春樹……」
「抱きしめて! 背中に、触れてもいいから」
行かないでと叫んだら、新鮮な空気が肺まで入った。
空気の通り道ができると、ぎこちなくても息ができるようになった。汗がひいていく。
「離れないで。こうしていて。修一……!」
新田の手が春樹の肩を包む。二の腕をさすってひたいの汗を拭い、髪を撫でて抱きしめてくれる。
春樹の体に負担をかけないような、新田らしい抱きしめ方だった。
翌朝、登校して校庭掃除と花の手入れをしようと言ったが、新田は首を縦に振らなかった。
「今日は昨日より少し涼しいし、水やりの必要はない。掃除は俺がやるからいい」
「でも、せっかく一緒にいるのに」
ソファで天気予報を見ていた新田がテレビを切った。春樹が新田の隣に腰を下ろす。
「一度、大きな病院に行こう」
新田の思慮深い瞳に影はないが、言いたいことは十二分に伝わってくる。
「病院なら昨日行ったよ。朝一番で」
「背中の傷のだろう。昨夜のこともある。色んな診療科のあるところで診てもらったほうがいい」
「色んな診療科……?」
「精神的なものも含めてって意味だ」
前から言おうと思っていたのか、迷いのない言葉だった。新田の膝が春樹の膝に触れた。次に言われることは容易に想像できたが、話を逸らすことなどできそうになかった。
「お父さんに相談しにくいなら、俺が病院についていく。大人がいないとだめなら……父か母についてきてもらう」
「そんな、そんなのだめ。言わないで。僕よりややこしい家の人なんて、たくさんいるよ。母は死んだけど父は生きてる。甘えてるって思われたくないんだ、誰にも」
「甘えてなんかいないじゃないか」
新田の視線が険しくなった。手を強く握られる。
「小さいころからひとりで住んでるんだろう? 学校で嫌なことがあっても、家政婦さんがいなければ誰にも言えない。夜中に具合が悪くなったり、寂しくなったり心細くなることもあったんじゃないのか。頑張ってるんだ、お前は。甘えていいと思う。病院にかかることは恥ずかしいことじゃない」
一度ぎゅっと握り、新田は春樹の手を離した。パーカーに袖を通して玄関に向かう。
「傷が完治するまで、朝の掃除や花の世話はするな。会おうと思えばいつでも会える。電話もメールもある。せめて……せめて俺には、甘えてほしい」
「修一……」
玄関ドアを開けた新田が、頬を赤らめてはにかんだ。
「俺じゃ頼りないだろうけど。ちゃんとした病院に行くことも、考えてみてくれ」
ドアが閉まり、善良で愛しい人の気配が消えた。
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