Cufflinks
第一話・焔 第三章・3
テスト明けの一日目は慌ただしかった。
昨夜は目覚ましをかけずに寝てしまったため、竹下からの電話で起きた。今日から仕事に復帰したいという電話で、春樹は快く了承した。健康であるなら、ひとりで部屋にいるより何かしていたほうがいいと思うからだ。
今夜は新田が来る。竹下も出勤してくれるなら、ハンバーグを作ってもらいたい。昼過ぎに竹下とスーパーマーケットで落ち合うことにして、雑居ビルの医院で受診した。
深夜の道を壬の車が猛スピードで走ったためもあり、わかるのは医院の名前と途中でとまった大きな交差点名だけだった。医院に着くまでに何人もの人に尋ねた。
ごま塩頭の医師は今日も野太い声でしゃべり、素早く処置をした。
『あの強がりにも傷を診せにくるよう伝えておけ、坊や』
処置を終えると、医師はそう言った。あの強がりとは高岡のことに違いない。高岡も受診していなかったのか。春樹が傷付けた夜から数度会っているが、包帯は常にきれいだった。自分で交換しているのかもしれない。
院名の入った薬の袋をバッグに入れようとしたとき、背後から軽いクラクションの音がした。振り返った春樹の手から小さな紙袋が落ちる。派手な外車から降りた男が、笑顔で話しかけてきた。
「何て顔してんだよ、わんちゃん。取って食やしねえって」
よく晴れた空と緑鮮やかな街路樹の下で、三浦勇次が恥を知らない顔で微笑んでいた。
勇次が自分の車を駐車する間、逃げようと何度も思った。実際に駆け出してもみた。数歩だけ走った足をとめたのは、脳裏に浮かぶ新田の笑顔だった。
固く握った手の甲に緑色の葉が落ちる。遠くからは小さな子の声もした。勇次は医院のある三叉路からそう遠くない公園で待っているように言った。車に乗れとも言わなかった。
公園の外周にあるコインパーキングから歩いてくる勇次は、手に缶飲料を持っていた。
「飲めよ。何も入ってないから安心しな」
からっと笑い、自分用の缶コーヒーを飲む。春樹は勇次の顔を見ずに蓋を開けた。アイスミルクティーだった。
「お前みたいなカワイコちゃんは、甘ったるいのが似合いそうだ。粥ちゃんからお前の自宅を聞いてたから、つけてきた。間に誰も入れずに話したくてな。あんな雑居ビルに医者がいるんだな。兄貴の鞭には犬っころたちも一、二週間はヒーヒー言うから、まあ、養生しろ。ほら、飲めって」
「……はい」
臭いを嗅ぎ、恐る恐るひと口飲んだ。刺激臭や変な味はしなかった。
「単刀直入に訊く。おれと寝る気はあるか?」
咳き込んでしまい、愉快そうに笑われた。背中や腋に冷や汗が滲む。
「粥ちゃんから聞いてるだろうが、おれの条件はこうだ。泊まりナシ。報酬はお前のケツに入れたくらいだが、交渉次第ではもっと出してもいい。兄貴と粥ちゃんは抜き。薬もナシだ」
「薬……なし……?」
「欲しいのか? お望みなら色々あるぜ?」
激しく首を横に振る。勇次が笑い、厚い手が春樹の髪を掻き回した。
「おれの遊び方はわかっただろうから、ゴムなしで少々キツくやられても大丈夫なときだけ受けてくれりゃいい。お前がアホな受け答えをしたらひっぱたくが、兄貴みたいに鞭で打ちゃしない。ケツも出血させないようにする。どうだ?」
春樹はミルクティーの缶をベンチに置き、うつむいて答えた。
「今、休暇中なんです。二週間お休みをいただきました。社と相談してお返事……」
勇次に頬をつかまれる。ぐいと持ち上げられ、鞭の傷に冷たい汗が沁みた。
「それは粥ちゃんから聞いてる。で? 社とどうやって相談する?」
考えていなかった。腹の底にあるいきどおりの炎が、粥川に向かって言わせたのだ。
稲見を通すことになるのだろうが、まず稲見に何て言えばいい。不注意で三浦兄弟にレイプされました、次男が遊びたいというのでこれこれこういう条件ですがいいですか。
経緯を訊かれないわけがない。粥川が一枚噛んでいたことを知られれば、新田が安全ではなくなる。
「言い訳くらい考えとけ。それか顔に出さないようにしろ。いつか命を落とすぞ、その頭の悪さじゃ」
春樹の頬から指が離れた。勇次は缶コーヒーを飲み干し、前髪を掻き上げた。風が葉を散らせ、勇次の髪も揺らす。よく見ると勇次の髪には全体的にわずかな癖があった。直毛の三浦とは、あらゆる外見が違う。
「社を通すのは承知した。おれがコネ使って客から紹介されるように仕向ける。どうしても嫌だったり都合が悪ければ、担当社員を通して断ればいい。断るのに遠慮は要らない。わかったらこれ、全部飲め」
勇次がアイスミルクティーを指差す。春樹は慌ててあおった。春樹が飲み終えると勇次は立ち上がり、片手をジーパンのポケットに入れた。もう一方の手を春樹の頭に置く。
「粥川は信用するな」
「えっ……」
「あいつは兄貴を盲信してる。兄貴が死ねと言えば迷わず死ぬ。そういう奴だ。おれにもへいこらするのは、おれが兄貴の弟だからだ。それ以外の理由はない」
髪がくしゃくしゃにされた。分厚い手の平も三浦とは違う。デスクワークをする人の手ではない。
「お前が断ったからって、連れてこさせたりはしない。粥川がおれの名前を出したら罠だと思え。次に会えるときまで、元気でいろよ」
兄の三浦勇一より低い背の、がっしりした後ろ姿が遠ざかる。ここで勇次を見ていても真意はわからない。
自分で判断するしかないのだ。出された餌に一服盛られているかどうか。毒餌を食べれば終わるだけだ。
どっちつかずの風が、春樹を試すように吹き抜けていった。
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