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第一話・焔 第三章・3


 五十畳を誇るリビングでも、いい匂いは漂うものだと知った。
 近代的なリビングは夜になると照明で表情を変えた。テレビとソファ、キッチンの周りは明るいが、あとは間接照明だけだ。影ができたためなのか、部屋が狭く見えるのがありがたい。
 高岡がいるダイニングキッチンは、天井に普通の蛍光灯がある。キッチンの外側にあるカウンターの前に、折りたたみ式のスツールが一脚、開いて置かれていた。
 立ったままキッチンの中を見た。高岡はラフな服装に着替えており、春樹の手土産を温めて皿に盛り付けていた。
「座れ。箸がいいか。フォークにするか」
「あの……僕、もう帰」
「もう一度訊く。箸か? フォークか」
 高岡の瞳が鈍く光る。春樹は背筋を伸ばし、フォークと答えた。スツールにも腰を下ろす。
「つまらんな。見事な箸使いを披露してもらいたかったのだが」
 嘲笑しながら言う高岡も、自分用の食器にナイフとフォークを用意した。
 真っ白で大きな皿に、たっぷりのソースがかかる煮込みハンバーグと茹で野菜が盛られている。春樹の前には別皿で白米が置かれた。高岡はアルコールを飲むものと思っていたら、意外にも飯をよそっている。
 自分が座るスツールを開いて腰掛ける高岡は、薄手のセーターとカラージーンズという格好だった。スラックスやチノパンと合わせる学校の教師より若い印象だ。
「挨拶を」
 カウンターの端を指で叩かれる。高岡をじろじろ見ていた春樹が、慌てて手を合わせる。
「いただきます」
「よろしい」
 ありふれた食事ではあるが、高岡の食べ方はスマートだった。横に並んで食べる春樹は皿をカチャカチャさせている。つい、下を向く回数が増えた。
「家政婦が作ってくれたのか」
 口もとを拭いて高岡が言った。春樹は口の中に白米を詰め込んだ直後だったため、膨らんだ頬でうなずいた。高岡が顔を横に向けて笑う。吹き出したいのを我慢しているようだ。
「飲み込んだら何か話をしろ」
 水と一緒に飲み下し、口を拭って胸を叩いた。
「ユリさんって、高岡さんのお母さんなんですよね」
「そうだ。それがどうした」
「高岡さん、何でここに住まないんですか? ここは広いし、拷問……防音室も立派なのが造れそうだし。もったいないと思います」
 高岡がナイフとフォークを皿に置いた。厳しい音ではないし怒ってはいないようだが、柔和な表情でもない。
 まずいことを言ってしまったのだろうか。
「ここは俺のものではない」
 春樹のグラスに水を足す高岡が言った。
「父が母に与えた家だ。生活の拠点にする気はない」
 これ以上訊くことはやめた。高岡は怒ってはいない。人を寄せ付けないオーラも出ていない。
 だが春樹にはわかる。怒るほどの、悲しむほどのことではなくても、言う必要のないことはあるのだ。口に出さなくても生きていけるなら、胸にしまっておくほうがいいこともある。
「この家をどう思う。正直な感想を言ってみろ」
 音をたてず、おいしそうに食べる高岡が尋ねた。春樹は茹で野菜にハンバーグのソースを絡めながら答える。
「広い、ですよね。庭がきれいです。ツツジも、シバザクラも。でも広すぎます。ソファにいてもキッチンに立つ人の気配がはっきりしないほど広いと……好きな人の香りや笑顔も、遠いような気がします」
 高岡は空中をぼんやり見て水を飲んだ。何かを思い出しているようにも見える。グラスを置き、目を伏せて微笑む。
 珍しく高慢さのない笑顔だった。


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