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第一話・焔 第三章・3


 鈴の音が聞こえる。
 耳から入る音ではない。この感覚は経験したことがある。笙子の、肉声ではない声だ。
 鈴が奏でる旋律を脳がダイレクトにとらえる。ひとつの音が終わる前に次の音が重なり、鈴の音階に合わせて悪童が踊り始めた。
 こだまする鈴の音は清らかだった。冬の湖畔を吹く風が、凛とした透明な音を運ぶ。
 鈴と遊ぶ悪童が風に乗る。手綱と鞭で風を巧みに操る。
 氷と雪とで化粧された湖面を抜けて針葉樹の林を縫うと、一面雪で覆われた荒野に出た。

 荒野の真ん中に大きな狼がいた。
 淡い茶灰色の密な毛で守られた獣の自慢は、首の周りから背中の途中までを飾る、銀白色の長い飾り毛だ。
 美しい毛並みを間近で見たくて、悪童が旋律をはらんだ風を操って近づく。
 狼が雪を蹴って駆け出した。風より速く走ろうとする獣が生意気に思えた。風の精霊に鞭を入れて狼を追う。

 狼の体躯が大きく跳ねて横転した。右の前足がトラバサミに挟まれている。
 この狼は悲鳴をあげない。大きな半円形の分厚い板から伸びる鎖は、土中深くまで埋められている。もがく足の骨は粉砕されているだろう。強く挟まれた足の肉に、罠の歯が喰い込んでいく。

 オオカミが足を捨てるよ、と、鈴の精霊が歌った。まさかと悪童が答える。

 前しか見ない狼は、あろうことか渾身の力で右前足を罠から引きちぎった。
 半円の罠の内側に足先が残り、真っ白な雪に血の紅が舞った。

 三本足で立つ狼の脇を、小さな狼が駆け抜けていく。
 仔狼は必死の形相で逃げる。深手を負った狼はその場を動かない。
 やがて林の切れ目から、別の狼の群れが出てきた。生きる経験が浅い仔狼から、血の臭いを放つ狼に関心を移す。
 足を失ってもなお威風堂々とした狼は、雪に赤い点を残しながら狼の群れに戦いを挑んだ。手負いの一匹狼と飢えた群れとでは、どちらが勝つかはわかりきっている。

 僕のせいかな、と、風にまたがる悪童が問う。
 風は何も答えず、悪童を乗せたまま仔狼を追い立てた。

 駆けろ。もっと速く。罠の位置を忘れるな。お前を守ったオオカミが教えた罠を。

 仔狼が空を仰ぐ。心臓は破れそうで足も痛い。もう何日食べていないかわからない。助けて。
 統制のとれた優秀な群れは、荒野に君臨する美しい獣を引き倒した。
 雪深い季節に見つけた獲物だ。逃がしはしない。あのチビも。
 リーダーの命を受けた数頭の狼が仔狼を追跡する。未熟な狼の行動は簡単に予測できる。
 一直線に走る小さな狼の、命のカウントダウンが始まった。

 悪童が風の手綱を開いた。仔狼を追うことをやめて旋回し、仔狼を仕留めようとする数頭の前に立ちはだかる。
 風も鈴も逡巡しなかった。精霊は下界に予定外の影響を与えてはならない。いたずらに獣を追い、守ることなど、してはいけないのだ。天に知られれば風は消えて鈴も声を失い、悪童は地に落ちる。
 それでも悪童は風を操った。鞭で打ち、手綱を引き、ゆるめ、太くて長い風の尾で地表の雪を巻き上げた。白い煙幕を何度も作り、飢えた狼たちを足踏みさせる。

 怯えるばかりの仔狼に、笙子の旋律が言葉を告げた。


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