Cufflinks

第一話・焔 第三章・3


 長い振動の後、携帯電話が静かになった。
「しゅ、修一」
 画面を着信履歴に切り替えて、たった今かかってきたばかりの番号を表示する。
 非常階段の上部から音がした。住人がゴミを出すために下りてきたのだろう。春樹は駐車場を抜け、マンションの表にある植え込みの角まで出た。

  お前が気に入ってる男は高岡彰だ。

「違う……!」
 植え込みの端に座り、目をつぶって否定する。ショーを見たときより、三浦の犬の身を心配したときより、心臓が激しく動いていた。頭の奥でする正体不明の声が、おかしな言葉を次々に繰り出してくる。

  高岡から合鍵を返されたとき、動揺してコップを割ったじゃないか。
  あいつのカフスボタンを、返したくないと思っただろう?

 今は誰と話すのも怖い。新田の笑顔と高岡の鋭い眼差しが頭の中で交錯している。
 迷う理由などない。怖がることもない。好きなのは新田だけだ。新田と一緒にいるときに感じるあたたかさは、高岡といるときにはない。涙を拭う指も、触れる唇も、まったく違う。
 携帯電話の電源ボタンに触れた。長押しして電源を切るつもりだった。指先に力を入れる寸前に、携帯電話が震えた。『新田先輩』がスクロールを始める。
 話さなくては。新田のために生きると決めたではないか。不安にさせてはいけない。
 指を通話ボタンの上に滑らせ、ふたりをつなぐ小さなボタンを押した。
「こんな時間にごめん。寝てたか?」
「寝付けなくて……外に出てる。時間なんか気にしないで。声、聞きたかった」
 嘘ではない。話すのは怖かったが、声を聞けて胸が躍ったのは事実だ。
「病院、行ったか?」
 新田の声は穏やかだった。サッシ窓を開けるような音がする。
「……行ってない。ちょっと出かけてたから」
「病院には行ってほしい。心配なんだ」
「ごめん。明日はちゃんと行く。心配だったから、修一も眠れなかったの……?」
 違う、という返事に隠れるように猫の声がした。新田の家の庭で見た、チビという猫かもしれない。
「いや、違わないな。心配だった。でもそれ以上に、許してほしいことがあってかけた」
「えっ。なに?」
「明日の夜、お前の家に行っていいか? ふたりきりになりたい……嫌か?」
「嫌なわけないよ! ねえ、空いてるの、明日の夜だけなの? テスト休みの間、どこかに行かない? 旅行券で。泊まらなくてもいいから。花のあるところ!」
 一度目の着信で出られなかったことを挽回するかのように、言葉が軽やかに飛び出していった。
 新田の気持ちも考えない、幼稚で勝手な言葉だった。
「お前と旅行するときは、自分で貯めた金で行く」
 落ち着いた声が春樹の勢いを消した。「ごめん……」という春樹の声が、夜の空気に紛れる。
「春樹。そっち、風吹いてないか」
 北からの風は先ほどから吹き続けている。駐車場に面した通りの街路樹の枝が揺れていた。
「吹いてる。修一、どこから電話してるの? チビの声がしたみたいだけど」
「俺の部屋からかけてる。窓の向こうに隣の屋根があるんだ。夜になるとチビ、屋根の上で夜空を見る。今夜はこっちも北風があるから、もう下りるみたいだ」
 もう一度猫が鳴く声がした。ふたりでチビを見た日がよみがえる。新田の部屋で何でもないことを話して、キスをして、体に触れた。あのときもらったキキョウのハンドタオルは姿を変えてしまったが、新田の愛情は変わらない。
「朝まで冷えるらしいから、寒くないようにして早く寝ろよ」
 優しい声の余韻が消えてから電話を切った。
 新田が好きだという気持ちに偽りはない。今の通話も、心は嬉しいと言っている。
 頭の奥の、妙な声がする箇所だけが冷めていた。


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