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第一話・焔 第三章・2
「ごめん。余計なこと言って」
「……ううん。嬉しかった。先輩、修一、僕のこと春樹って呼んでくれた。人の前で」
「そんなことどうだっていい。あの人は何だ? 煙草の火を手で消すなんて。鞭もよく使うのか? 前に学食で気持ちが悪くなったのも、高岡さんに何かされたからじゃないのか。自営業でもこんな時間に来て……何してる人なんだ。前からこんなことされてるなら、お父さんに相談したほうがいい」
床にへたり込んでいる春樹から、新田の言葉が遠くなっていく。
言い訳しろ。何をしている。狂犬の職業など何でもいい。父のこともそうだ。適当に嘘をつけ。新田を煩わせるな。
脳裏に浮かんだのは、高岡のカフスボタンだった。
汚れ仕事をする高岡の、唯一きれいだと思える持ちもの。
銀白色のカフスボタンには、高岡の血が少量ついていた。昨夜、濡らしたティッシュで血を拭きとった。寝る前に、一度しまったカフスボタンを出して拭いたのだ。小さな装身具を丁寧に拭った。
きれいにして返すために始めたことだったけれど、違う感情が芽生えた。その感情を否定できない自分に焦った。
強く煌くカフスボタンを返したくないと……思ったのだ。
高岡の瞳を思わせるものを、手元に置きたいと思った。春樹には似合わない。留め金も壊れている。必要ないと頭でわかっていても、ハンカチに包んで引き出しにしまうとき、頬が熱くなった。
(今はこんなこと考えるときじゃない。言い訳しろ。修一を見ろ。何か言え)
二の腕が痛んだ。床にしゃがんだ新田が、大きな手で春樹の二の腕をつかんでいた。
「口どめみたいなこと、されてるのか? 怖くて言えないのか?」
「ち、違うよ。仕事はサービス業みたい。詳しくは知らない。ほんとに。痛みに鈍感なんだ。この間も慣れない料理して怪我したけど、へっちゃらな顔してたから。右手、包帯してたでしょ。鞭は初めて。学食のときは関係ない。本当だよ」
「……春樹。失礼だけど、ちゃんとした人なのか、あの人」
「父も、親戚だけど一応調べて一任してるんだって。高岡さん、父の会社にしょっちゅう顔出してるみたいだし」
脳が悲鳴をあげ始めた。学生食堂で倒れたときこそ高岡の鞭が原因で、新田に薬を塗ってもらった傷痕は、三浦がつけたものだ。嘘をつき、嘘に振り回される自分に吐き気がする。
春樹は無理に笑顔を作り、新田に放してもらうよう頼んだ。少し手の力がゆるんだ隙にすり抜ける。
「これ、見てみよ? 羽を伸ばすって、どういうことだろ」
弾ませようとした声がひっくり返った。かまうことなく、高岡が置いていった封筒を開けた。
長方形の紙がばらばらとテーブル散らばる。手に取った新田が、怒りを抑えた声を出した。
「旅行券じゃないか。一、二……十万円分ある」
塔崎の誕生祝をした春樹への返礼の品として、社を通して旅行券が贈られると稲見が言っていた。
春樹の顔から最後の血の気が引く。手繰り寄せる言葉もない。
「これがお前の家のやり方なのか?」
正常な考えに押される。テストが終わったからと十万円分の旅行券を褒美にするなど、普通の親はしないだろう。
春樹は片手をリビングの床についた。もう何も言えない。言い訳など、逆立ちしてもかなわない芸当に思えた。
床についた手をとられた。春樹の手をとった新田の、揺れる瞳が目の前にあった。
「今のは取り消す。どうかしてた。愛情表現は人それぞれなのに、ひどいこと言った。ごめん……ごめん、春樹……!」
両肩を抱かれた。新田の頬が春樹の耳に触れる。一瞬の間の後、ひたいに唇が触れた。
優しい感覚に負けそうになった。こみあげるしょっぱい液体を抑え込む。唇が離れ、少しかすれた声がした。
「旅行券のことはもう言わない。でも、高岡さんは間違ってる。お前にとっては遠い親戚の人だし、料理もしてくれるなら良い面もあるんだろう。それでも、九割優しくされたとして、一割が暴力ならそれは教育じゃない。いけないことなんだ」
春樹の頭が見えないものにつかまれた。常識という名の目に見えないものが、春樹の首を縦に振らせた。
何も考えられない頭を、二度、三度と振った。新田が納得するまで振り続けた。
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