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第一話・焔 第三章・2


「高岡さん」

 新田の声に正常な反応を示したのは高岡だった。
「新田くんといったね。こんにちは」
 笑顔で言い、いつもよりゆっくりと歩いてくる。新田は頭を下げながら「お邪魔してます」と返し、ソファの端に移動した。小さく咳をして、腰を下ろす前にもう一度会釈する。
 腰掛けても落ち着かない様子の新田が、リビングと廊下の境目あたりを見ている。春樹は目だけを動かして新田の視線を追ってみた。上唇の端がびくりとした。
 高岡が整いすぎた笑顔で立っている。廊下の壁にもたれて、この状況を観察していた。
 ローテーブルに置かれたピンセットや脱脂綿、外用薬、上はTシャツだけの春樹、ばつが悪そうに座る新田を、少し首をかしげた状態で見ていく。次に、ダイニングテーブルを見た。一度目を伏せ、すぐに開く。
 高岡の顔から一切の甘さが消えた。まぶたの開閉がスイッチになったみたいだった。
「服を着ろ」
 色素の薄い瞳が春樹を見据える。鞭を振るうときの────違う。それ以上の光を放っていた。
 余計な感情を削いだ目だった。春樹を言いなりにさせるとき、冷たい目に必ずといっていいほど嘲笑があった。今はそれがない。高岡が一歩前に出た。真っ直ぐこちらに進みながら、低い声で命令を下す。
「服を着ろと言っている。客人がおいでなのにその格好は何だ。着たら飲みものくらいお出ししろ」
 包帯をした手が外用薬をしまっていく。手伝おうとする新田には一瞥もくれず、ピンセットも収めた薬箱を所定の位置に戻す。流れるように歩いてキッチンで布巾を洗った。春樹を振り返り、絞った布をパン! と張った。
「早くしろ。また殴られたいのか」
 新田が腰を上げる前に、春樹が寝室に飛び込んだ。転びそうになりながら制服のパンツを脱ぎ、失礼にあたらない程度の私服を着る。大きな足音をたててリビングに戻った。
 春樹が着替えている間にローテーブルを拭き終えたのか、高岡はソファで脚を組み、窓の外を見ていた。その高岡を新田が見ている。利発そうな眉の間にしわがあった。『また殴る』という言葉を聞きとがめたのだろう。
「早くしないか」
 今日の高岡は仕立物らしいスーツを着ている。初めて新田と鉢合わせした日とよく似ていた。体に合い、美しい顔を引き立てる服だ。外見だけは少しの欠点もない男が、新田の前で横柄に振る舞う。
(客人がおいでなんだろ、ちゃんとしろよ)
 頭の中の悪態に刺激され、少々乱暴に冷蔵庫を開けた。オレンジジュースをコップにそそぐ。悠然と座っている高岡と、浅く腰かける新田の前にコップを置いた。
「一分四十秒」
 ジュースをひと口飲んだ高岡が、指で腕時計を叩きながら言った。
「お前が着替えてからジュースをお出しするまでの時間だ。記録的な遅さでめまいがする。ここは飲みものを運ぶのに二分近くもかかる大邸宅か?」
「……ごめんなさい」
 一度コップに口をつけたが、飲まずに置いた新田が高岡に向きなおった。
「丹羽くんは怪我をしています。痛くて速く動けないのでは……丹羽くんの怪我、ご存知ですか」
 聞こえているのかいないのか、高岡は煙草を取り出した。高岡の喫煙は珍しくもないが、この部屋で吸うことはなかった。玄関で火をつけて出ていく姿しか知らない。ライターが開く金属音がして、煙草に火がつけられた。
「ご存知も何も、僕が鞭で打ち据えた傷だ」


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