Cufflinks

第一話・焔 第三章・2


 車内スペースが広い佐伯の車に、佐伯と高岡、男、春樹の四人が乗った。
 男がしきりと春樹と佐伯を見て手を動かす。男の手を見ていた佐伯が、前部座席の間にあるアームレストから手帳とペンを出し、男に渡した。
 男は頭を上下に振り、必死になって何かを書いた。書いたものを春樹に突き付けてくる。
「カン……を、ほった、の……どっち……?」
 書いてあるままを春樹が読み上げる。すぐに判読できない字もあるので、つかえてしまった。
「お前の隣にいる子だよ」
 佐伯が優しく言った。春樹は「えっ」と声をあげ、男と顔を見合わせる。
 三浦に捨てられた若い男は、目の縁をピンク色に染めた。口をひくひくさせて春樹を見る。
「きみ、空き缶を投げたよね。必要以上の罰をやめさせるために」
「あ……はい」
 男はわかっていたのだ。股間を踏み潰される寸前に、空き缶が投げられたことを。最初は佐伯が投げて三浦の注意を逸らせたと思ったのかもしれない。だが、春樹が出てきたので投げたのは春樹かもと考えたのだろう。
 鶏の足のような手が再びペンを持つ。字を書こうとしているのは間違いないが、ペンの先は手帳を突くばかりだ。悔しそうな顔をしている。結んだ唇をへの字にして、ペンを持つ手で自分の頭を殴り始めた。
 助手席に座る高岡が身を乗り出した。頭を殴ることをやめさせ、男の耳もとでささやく。
 男は先ほどより激しく首を縦に振り、五文字の言葉を大きく書いた。

  ありがとう

 読み上げた途端、腹の底が煮えくり返った。
 ありがとうの言葉がすぐに出てこない。そんな人が目の前にいる。
 ありがとうと伝える機会が乏しかったからだ。人としての当たり前の感情を奪われ、大切な言葉を忘れた。
 下等な犬の生活を強いられたために。
 男が手帳を取り上げた。ありがとうと書いたところを指で叩く。
 自分の薄い胸板を叩き、ありがとうを叩き、春樹を指差す。それを何度も繰り返す。
 春樹は腹に力を入れ、声を震わせないようにして答えた。
「あなたのありがとう、伝わりました」
 男がほうっと息をついた。佐伯が男と高岡を順に見る。
「彼は私が貰い受けよう。当面は実家に置く。落ち着いたら部屋を与えるので、高岡くんも会いにきてやりなさい」
 はいと言った高岡は、会釈して助手席のドアを開けた。男がスラックスからネクタイを出す。高岡が目隠しするために使ったもののようだ。ネクタイを握り、春樹の顔の前で振り回した。
「ネクタイを返したいの?」
 春樹の問いに男がうなずく。春樹は車から出て、離れていく背の高い男を呼びとめた。
「高岡さん! 待ってください。ネクタイ、お返ししたいそうです!」
 切れ長で灰色に光る目がこちらを見た。無表情な顔で引き返し、若い男が座る席のドアを開けた。
 ネクタイを受け取り、男のワイシャツのボタンをふたつほど外す。
 細長い首の真ん中より少し下に、傷があった。手術痕のようだった。
「それほど古くない傷だ」佐伯が言う。
 視界を奪ったネクタイを、高岡が男の首に巻いた。一度だけ結び、傷を隠すようにシャツの内側に入れる。
「佐伯様の所有物としてふさわしい振る舞いをするように。わかるな」
 高岡の顔を見つめていた男が、顔から右手に視線を移した。絆創膏がある右手を指差し、自分の右手を開く。高岡に右手を開けと言っているらしい。
 開いた高岡の右手を男が持つ。春樹の過ちによる傷の上に、男の唇が触れた。

 春樹の胸に激痛が走った。ふたりに背を向ける。
 胸が痛すぎてしゃがみ込みそうになる。できることなら逃げてしまいたい。でも、実行に移したら怪しまれる。


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