Cufflinks
第一話・焔 第三章・2
「あの陰に」
佐伯に押され、這うようにして集積所の壁の陰に滑り込んだ。佐伯が立ち上がる。
「これは佐伯様。お帰りですか」
扉がスライドする音に続き、粥川の声がした。春樹は壁に肩と頭をくっつけて集積所の扉付近を見る。
粥川を無視した佐伯が扉の端にもたれ、集積所の中に声をかけた。
「可愛い愛奴ですね。躾の入りもいい。ショーの成功をお祝いしたいのですが」
三浦が出てきた。蛍光灯の灯りを反射する眼鏡がぎらりと光る。
「打つ方が高岡さんだったから、私も恥をかかずに済んだまで。出来損ないの犬をこれ以上お見せしたくない。せっかくの記念の夜ですが、帰ります」
「宵の口ですよ。罰をお与えになるならプレイルームに行かれては。お許しいただければ、私もあなたの愛奴を打ってみたい。彼の赤く染まる顔が見たいのです」
「……申し訳ありませんが。これでも手塩にかけた犬です」
佐伯が下を向く。笑っているように見えた。
「そうでしょうね。喉を潰されるほどだ。声まで独占されたくなった可愛い犬を寝取られたようなショーではありましたが、共用部分でこれは如何なものか」
凍った空気が春樹のもとまで届く。佐伯と三浦の間に、触れると弾き飛ばされそうな光の筋ができていた。
「何か誤解されているようだ。この犬は、譲り受けたときにはすでに唖(おし)でしたよ」
「それは失礼。おや、誰か来ますね。見目良い調教師のようだ」
高級車群のほうから、規則的な足音がした。ベッドの周りを歩くときと同じ、自分のテリトリーに引き込む音だ。
狼に似た目は春樹を見ない。歩調を変えず、真っ直ぐ集積所の扉に向かう。
「お疲れ様。良いショーだったよ」
「ありがとうございます」
佐伯に礼を言った高岡が、改めて三浦に一礼する。三浦はぺこりともしなかった。
「お礼を申し上げたく、参りました。立て込んでおりまして、お捜しするのが遅くなりました。申し訳ありません」
集積所の中で鎖が鳴った。若い男が出てこようとしているらしい。鎖を引かれたのか、かすれた悲鳴と人が倒れる音がする。三浦が顔だけを後ろに向けて命令した。
「放してやれ」
鎖を引きずったまま男が這って出る。骨ばかりの手で高岡の靴に触れ、躊躇なく靴先に口づけした。
高岡の態度は一切変わらない。ショーの前に談笑していたときと同じ調子で話す。
「賢くて素直な愛奴でしたので、至らない僕でも形にできました。ありがとうございます」
対して、三浦は片頬を引きつらせていた。眼鏡の奥の一重まぶたまで痙攣していそうな、激しい怒りの表情だ。
春樹は自分の息をのむ音を聞いた。これは高岡が仕掛けたことだ。
ひとつケリをつけると高岡は言っていた。高岡は好戦的な男だ。春樹の携帯電話を取り返すためとはいえ、昔の恥部を映した映像をあっさり提供するのは不自然だ。
高岡を下に見ている三浦に映像を渡して油断させる。高岡にさらなる恥をかかせてやろうとした三浦が、自分の犬を舞台で打ってくれないかと高岡に依頼する。
臆病な男を使って盛り上がりに欠けるショーにしようとした三浦の画策が、まったく違う結果になった。
舞台の上で飼い犬が高岡に魅了されるとは、思いもしなかったのだろう。
「粥川。帰るぞ!」
三浦が足早に歩く。粥川も集積所から出て三浦に続く。
「三浦さん。可愛い愛奴を置いてお帰りに?」
言いながら、佐伯がさり気なく移動した。春樹が身を隠す壁の端に立つ。三浦や粥川が振り返っても、春樹が見えないようにしてくれたのだ。
三浦は立ちどまり、前を見たまま大きな声で返した。
「恩知らずの駄犬です。お気に召したなら無料でお譲りしますよ」
負の感情をあらわにした三浦と、王に仕える従者のような粥川の気配が消える。
佐伯が春樹を見た。やれやれという顔で笑っている。
「その聞かん気は誰に似たのかな。清掃員が戻るかもしれない。私の車に行こう」
壁に貼り付いていた春樹が集積所の前に出る。高岡が若い男の鎖を外していた。
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