Cufflinks

第一話・焔 第三章・2


 非常階段は静かだった。自分の足音と呼吸音の他には、ビル特有の風がうなる音しかしない。
 地下一階まであと少しなのに、理性が後ろの襟をつかんだ。三浦の犬など放っておけ、と言っている。
 春樹を突き動かしているのは背中の傷だ。何が目的なのかわからないが、三浦は今夜、自分の犬を高岡の共演者にと依頼した。観客の前で泣きじゃくった奴隷に罰を与えても不思議ではない。
 三浦の鞭は狂っている。痩せ細った体で激しく打ち据えられたらどうなるか────
 理性を振り払った。爬虫類に似た冷酷な男に打たれるのは、イヌではない。人だ。人権のある、笑うこともできる、生きた人間だ。
 一度深呼吸をして、B1と書かれている扉に手をかけた。


 駐車場内の壁に沿って歩く。人とすれ違うたびに冷や冷やした。
 夜の店ばかり入るビルの中で、春樹はどう見ても十代にしか見えない。しかもこの十代は、高級車を凝視している。
 佐伯の前に三浦の車を探すことにした。粥川が男を連れて車に戻ったと考えるのが自然だ。三浦のスポーツカーがあれば、男も建物の中にいるだろう。三浦が他の車で来ている可能性はあるが、わずかでもある希望に賭けるしかない。
 つまみ出されないようにと祈りながら、広い駐車場の壁の四辺のうち三辺を歩き終えてしまった。
 三浦の車も佐伯の姿も見つけられないまま最後の一辺に差しかかったとき、天井の蛍光灯とは違う灯りに気付いた。
 地下一階の一番奥まった場所に、L字状にコンクリートの壁で囲まれた空間がある。横に引いて開ける扉があり、扉の三分の一ほどを占める窓から灯りが漏れていた。
「…………!」
 硬い手の平が春樹の口をふさいだ。
 この手は知っている。ジャコウの香りで惹きつけて笑顔でほっとさせる、タカの目をした男の手だ。
「笑うとえくぼができる男が、三浦氏を慕う社員だね?」
 春樹がうなずくと、口をふさいでいた手が離れた。「仕方がない子だ」と言いながら、春樹を壁の隅に隠す。
 地下一階の駐車場は所々に大きな柱があるが、壁の四隅にも柱を覆うような出っ張りがある。出っ張りの陰に入ると、視界に入る車の数が減る。駐車場側からも死角になっているみたいだ。佐伯がL字状に囲われた箇所を指す。
「ゴミ集積所だよ。ゴミを計量して、分別しておく場所だ。清掃員が巡回に出ている間は誰もいなくなる」
「み、三浦様は……? 鞭で打たれた人は」
「三浦氏も社員も三浦氏の愛奴も、集積所の中にいる」
 破れそうだった心臓が静かになった。男が連れ帰られていたらお手上げだが、いるなら何か手立てがあるはずだ。
「店内やホテルは利用しないが、自宅に戻るまで待つことができないのが三浦氏だ。仕置きするならここだと思い来てみたら……困ったものだ」
 三浦の醜さを佐伯も知っているのかもしれない。自己本位で激昂しやすい性格を把握しているようだ。
「三浦様は頭にきてるんですよね。あの男の人が、舞台で泣いたから」
「頭にきているだろうが、理由は違うと思うよ。おいで。私の陰から出ないように」
 スロープを下りてきた車が通り過ぎる。春樹は佐伯から離れずに、ゴミ集積所の壁に隠れた。


「このバカ犬めが!」
 集積所の中から三浦の怒声が聞こえる。鎖がコンクリートの床に当たる嫌な音が響く。
 佐伯と共に扉の窓から中を覗いた。手前に粥川の横顔が見える。声が出そうになり、春樹は口を覆った。
 四つ這いで首に鎖をはめられた男が、粥川が引き絞る鎖をつかんで苦しんでいる。真っ青な顔が濡れて光っていた。
 一度ゆるめた鎖を粥川が鋭く引いた。衝撃に耐えられず、男が仰向けに倒れる。男の下半身が三浦に向くように、粥川が鎖を持って数歩移動した。三浦が男の脚を蹴って開かせ、股の間を踏む。男は口を歪ませ、頭を打ち振った。
「何もするなと言ったはずだ。もう忘れたのか、バカ犬」
 踏まれたところが痛いのだろう、男は口を動かし、三浦の靴に触れようとした。粥川が男の手を払う。
「舞台で反応しないことを条件に、散歩に連れてきてやったのだ。鞭の音に恐れをなして泣いたことは許す。織田沼の息子の滑稽な踊りが見られたからな。粥川。これを外に出さないようにして何年だ」
「四年です」
 えくぼはないが、粥川の声には安っぽい嘲笑があった。
「淫乱なバカ犬めが。こともあろうに織田沼の息子の鞭に酔うとは。二度と檻から出さんぞ」
 三浦の膝が上がった。男を痛めつけていた足をどけるだけにしては、上がり方が高い。
(踏み潰す気だ)
 春樹は身の周りを見た。集積所を囲む壁の角に、缶コーヒーの空き缶が置かれている。
 迷わずつかみ、思いきり投げた。佐伯が見張った目を春樹に向ける。
 空き缶が弾んで転がる音は予想以上に大きく、春樹のほうが動けなくなってしまった。足がもつれて立てない。
 三浦も蛮行を中止したようだ。靴音が近づく。扉が開いてしまう。


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