Cufflinks

第一話・焔 第三章・2



  そこでいい子にしていたら、また打ってあげるよ。

 ナレーションも何もなかったが、少し低い、男らしい声がそうささやいた気がした。
 見ているだけの春樹にも伝わったのだ。打たれた当人に届くのは容易なことだろう。
 鞭を自在に操る高岡の、次の来訪を理解したからうなずいたのだ。
 舞台の照明がすべて消えた。広間の灯りが点く。一瞬の間の後、指笛と盛大な拍手が沸き起こった。
 春樹はひとり、胸を押さえた。鼓動は激しくない。黒いモヤも感じられない。ただ、胸の奥が痛かった。
 冷たい水で顔を洗いたくなった。洗面所を探して目を泳がせたとき、舞台に近い扉を開ける男が目に入った。
 扉は舞台の両脇にある。目立たない扉だ。客が利用しそうにない扉の向こうに消えた後姿に見覚えがあった。
 今夜ここに来るように誘った張本人、粥川に間違いない。
 考える前に立ち上がっていた。三浦が着いていたはずの席を見る。誰も座っていない。廊下につながる出入り口を見たが、人が多すぎて誰が誰だか判別できなかった。
 激しくなかった鼓動が乱れ始める。頭の中では警鐘が打ち鳴らされていた。
「食べたいものがあれば、持ってきていただこうか」
 佐伯が穏やかに言った。稲見はジェスチャーで座れと言っている。
「あ、あの、すみません。お手洗いに……ごめんなさい!」
 礼をするのもそこそこに席を離れた。稲見が春樹を呼ぶ声がする。
 理由はわからないが、じっとしていられない。心臓がどうにかなりそうだった。


 絨毯に足をとられながらエレベーターの前に躍り出る。エレベーターはこの階を離れたばかりだった。
「ハルキくん。どうした」
 どこへ行けばいいかわからずに立ち尽くしていた春樹の腕を、佐伯がつかんだ。
「さっきの舞台の人、高岡さんが鞭で打った人の、喉が潰されてるって本当ですか?!」
 ひどい剣幕だったが、佐伯はたしなめようとはしなかった。
「きみ、三浦氏を知っているんだね。彼が客なら無理にとは言わないが、心配なことがあるなら言いなさい。言えることだけでいいから」
 粥川がいる以上、新田の身が心配だ。三浦兄弟の凶行は口が裂けても言えない。
「怖い方だと伺ってるだけです。三浦様を慕う社員さんがいるんですけど、その人、舞台のそばの扉を開けて入っていきました。あの扉って、誰でも入れるんですか?」
 佐伯は一度視線を外した。店舗の前に立つ従業員に背を向け、春樹の肩に手を置く。
「きみは稲見さんが待つ席に戻りなさい。その社員の特徴は?」
「あの、僕も」
「特徴を言いなさい」
 猛禽類の目に見据えられた。春樹は唾を飲み下し、粥川の外見を伝える。佐伯は春樹の頭を撫でると、エレベーターのボタンを押した。近くの階でとまっていたためか、すぐにこの階にくる。
「な、何か嫌なことが、危ないことが……?」
 エレベーターの扉が開く。佐伯が落ち着いた笑顔で振り返った。
「改装記念の晴れやかな夜だよ。ふさわしくないことは起きない。安心しなさい」
 春樹の鼻先で扉が閉じた。エレベーターは下に向かっていく。着いた階を確認してボタンを押したが、なかなか上がってこない。地下一階でとまったままだ。駐車場があるため、人の乗り降りに時間がかかるのだろう。
 従業員が不審を抱く前に移動したほうがいい。ふと天井を見ると、フロアの突き当たりに非常口の案内灯があった。後ろを振り返りながら案内灯のほうに行く。緑色に光る灯りの下の、金属の扉を開く。非常階段があった。
 階段を一段下りたとき、背後で扉が閉まった。重い音に背中を押される。
 春樹は奥歯を噛みしめ、階下を目指して駆け下りていった。


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