Cufflinks
第一話・焔 第三章・2
開演を知らせるベルもブザーもなく、場内が暗くなった。
シャンデリアは観客が着席した時点で消えていたが、いきなり真っ暗になるのは怖い。女性客が声をあげる。
「床が少し震えるかもしれない」
佐伯がささやく。舞台がある広間の床は板張りで、テーブルも椅子も木製だ。改装したばかりでも、新改築独特の臭いはない。黒に近いダークブラウンで統一された室内は、ビルの外観から想像していたより広く感じられた。
何の音かわからなかった。
耳に馴染まない、とてつもなく大きな音が数回した。
ジュースが振動で同心円状に波打っている。佐伯が言ったとおり、床が震えているためだろう。
空気に余波が残るうちに、一際大きく、鋭い音がした。
鞭の音だとわかったときには、目の前の景色が一変していた。
テーブルも、グラスも、佐伯と稲見の横顔も、すべてが赤く染まった。舞台の照明が赤一色になったためだった。
舞台の中央に檻がある。三辺が黒い柵で囲まれた、大きな檻だ。観客席側だけが開いているので、柵に邪魔されることなく檻の中が見られる。
照明の当て方のせいなのか、檻にいる人の様子が判然としない。三浦の飼い犬だと粥川が言っていたので若い男性なのだろうが、それにしては小柄だ。男性らしき人がとらされている体勢も不可解だった。
厚い板、ではない。脚のないベッドを立てたものに、人間が括り付けられている。
ベッドは天井から太いワイヤーでぶら下げられていた。ベッドの下からもワイヤーのようなものが出ている。上からのワイヤーと比べてたるみが大きい。そのため、ブランコのようにベッドが揺れていた。
キイ、キイという音に、じゃらりという音が混じる。括られた人が手足を動かすと聞こえる金属音は、鎖の音だ。
鎖が擦れる音が激しくなった。自由を奪われた人がもがいている。体をよじり、逃げようとしているようだった。
「怖がっているね。演技ではなさそうだ。打ち合わせができていないのかもしれない」
佐伯の硬質な声に被さるように、後方から指笛が鳴った。
檻の向こう側に、背の高い男のシルエットがあった。目だけが光っている。
真っ黒な影でもはっきりとわかる眼光を持つ長身の男は、ひとりしか知らない。
高岡の左手が上がる。肘から先だけを上げた腕が、ゴミでも払うように、いい加減な感じで振り下ろされた。
「──────── ッ!」
腹の奥まで響く音に圧倒された。舞台の床を打っただけなのに、自分が打たれたような錯覚に襲われる。
「目を開けてごらん」
佐伯に言われ、無意識につぶっていた目を恐る恐る開けた。高岡が立つステージは、昼間の色に変わっていた。
凝った色味はなく、健康的で日常的な、講堂や体育館で教師が演説するときに見る照明だ。
そんな明るい光の下でも、高岡の共演者の姿は普通ではなかった。
非常に痩せている。頬はこけて肘が尖り、脚も細い。ワイシャツもスラックスも、だぶついていた。
あんなに痩せた人を鞭で打ったりして大丈夫だろうか。
鎖の音に混じり、しゃくりあげる呼吸音がした。括られている人が泣き出したのだ。
高岡が振るった鞭は太くて長い。サーカスの猛獣使いが持っているような、ひと目で鞭とわかるものだった。
床を打つ強烈な音で、痩せた若い男は恐怖にかられたのだろう。客席の一部がざわめく。佐伯の目も険しくなった。
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