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第一話・焔 第三章・2
稲見が運転する車は、都心にあるビルの近くで速度を落とした。
ビルの地下駐車場に続く車列の最後尾で停車する。ラジオの音にウインカーのリレー音が重なる。
「完全招待制のイベントは何年ぶりかだよ。粥川はチケットをよく持ってたな」
「そ、そうですね」
三浦の名を出すことになるかもしれないので、下手なことは言えない。春樹は横目で稲見を見た。機嫌が良いのか、笑顔が絶えない。本日最後の仕事を終えた稲見は、自家用車で春樹の自宅まで迎えにきた。結婚披露宴の出席者が着るような、光沢のあるスーツを着ている。
「あの、そんなにすごいイベントなんですか?」
「ショーそのものは大人しいと思うよ。店の方針で着衣が基本とのことだしね。招待客が普通ではお目にかかれない。芸能人でも紹介者がいないと入れないし、政治家や財界人も少なくない」
政治家という言葉で、春樹の口はまた静かになる。
高岡のもうひとつの姓は織田沼といい、代議士である父親の姓だという。
政治家の血を引く高岡が舞台に立って、三浦の飼い犬と呼ばれた人を鞭で打つのだ。
(何のために……三浦の……)
社で粥川に言われたことを思い出していたら、駐車場に入っていた。車から降りるように言われる。
EVという文字と矢印に従って進む人が何人もいた。
「きょろきょろしちゃだめだよ。ついてきなさい」
紳士にエスコートされる女優や作家などを積極的に見ているのは稲見のほうだ。
周りを行く人が華やかで、春樹はつい自分の胸もとや袖を見てしまう。
壬の店で新しく買った服を着て稲見を迎えたら、カジュアルだと言われた。一着しかない礼服はおかしくはないと思うが、壬の服のような着心地の良さはない。
(来るんじゃなかった)
行かなければ新田をどうこうすると言われたわけではない。三浦から春樹を連れてくるよう命じられていたら、粥川は春樹を拉致してでもそうするだろう。
『よもや舞台上で恥をかくようなことはないでしょう』
SMクラブや三浦に関わる人になど近寄りたくない。人を鞭で打つ高岡にも興味はない。
それなのに来てしまったのは……ここに来たのは────────
乗り込んだエレベーター内で、きつい香水の香りがした。
狭い空間の隅で縮こまる春樹は、仕事をするときよりも強い不安を感じていた。
エレベーターを降りると、すぐ正面に店舗の扉があった。扉は開放されており、人々の笑いさざめきが聞こえる。
扉の脇に黒いスーツを着た従業員がいた。従業員にチケットを渡した稲見に続いて店内に入る。
入ってすぐは、毛足の長い絨毯が敷かれた短い廊下だった。廊下の両端に数脚の椅子と、スタンド式の灰皿がある。
喫煙を楽しむ人の中にも、テレビで見た顔があった。大手衣料品会社の代表取締役や、海外の食品事業グループと提携して合弁会社になると報道された企業のトップなどだ。奇抜なデザインで知られる服飾デザイナーもいる。
ニュースは眺める程度、新聞も渋渋の春樹でも知っている顔が多い。稲見は彼らを見て、何度もネクタイを直している。そのうちにネクタイで首が絞まるのではないか。
絨毯は廊下の奥で途切れていた。内扉も開け放されており、ビルの一室とは思えない空間が広がっている。ホテル以外でシャンデリアを見るのは初めてだ。木の床は光沢があり、靴底が当たってもやわらかい音がする。小さくて丸いテーブルと椅子が、何脚も置かれていた。一番奥が舞台のようだ。真紅のどん帳が下りている。
着飾った多くの男女がグラスを手に挨拶や近況を伝え合っていた。座って話す人より、立っている人のほうが多い。大きなシャンデリアと壁に付けるタイプのシーリングライトの他にも、天井には電球が埋め込まれている。
それらが煌々と照らす空間は、どう考えても春樹には不釣合いだ。年齢も当然のことだが、自分だけがみすぼらしく思える。仕方なく稲見の真似をして自分のネクタイに触れた春樹が、嗅いだことのある香りをとらえた。
ジャコウの香りだった。
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