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第一話・焔 第三章・2
えくぼが特徴の同僚に、稲見が声をかけた。
「粥川。帰ったんじゃないのか。今日は夜中に送迎だろう。仮眠しないときついぞ」
「お疲れ様です。机周りを整理していました。時間のあるときにしておかないと、すぐに散らかりますので。もう帰ります」
「お前ならミスなくこなすだろうけど……春樹くん。悪いけどもう少しここにいてくれないかな。オフィスに置いてくるよ。大事なお礼状だからね」
上っ面は真面目な粥川の手前なのか、稲見は急に背筋を伸ばし、礼状をスーツの内側に収めた。見事な姿勢でエレベーターホールに進んでいく。
胸の中で稲見への悪態を言い連ねる春樹に、粥川が親しげに話しかけてきた。
「立ち話もなんですから、座りませんか?」
「立ってるのが好きなんです」
「わかりました。ではここで。すぐに済みますよ」
えくぼのある顔を見ないようにしていたら、長方形のチケットらしきものが目の前に差し出された。
「今夜、面白いショーがあります。社会見学がてら来てみませんか」
黒を基調とした紙の下方に吸い寄せられた。粥川から奪い取り、見たことのある名前を指でなぞる。
数名の男女の名の中に、高岡彰の三文字があった。出演者を意味する英語もある。
「老舗SMクラブの改装記念イベントです。こけら落としのショーですよ」
「僕は別に、こんなの興味な」
「あなたの調教師が打つ犬は、三浦様の飼い犬です。少々不自由な犬なのですが、なに、織田沼の息子はアドリブの名手だ。よもや舞台上で恥をかくようなことはないでしょう」
腹の奥でくすぶっていた炎が、ものすごい勢いで燃え上がった。
粥川のえくぼがくっきりしてきた。えくぼの他にも笑いじわを作り、なおも続ける。
「同伴者がいなければお供しますよ? 仮眠のない生活には慣れていますので」
エレベーターのチャイムが鳴った。軽い足どりでやってくる稲見が見える。
春樹は稲見に駆け寄り、とまらずに稲見の腕をつかんだ。勢いを吸収しきれなかった稲見がよろめく。
「稲見さん! 今夜、お時間ありますかっ!」
「へ? いやきみ、もう少し小さな声で」
「粥川さんから興味深いチケットをいただきました! ご一緒にどうでしょう!」
エレベーターを利用する人たちが、奇妙な取り合わせの三人を見ていく。大きな声で稲見に問いかけながら粥川を睨む春樹が元凶だ。受付嬢も首を伸ばしてこちらをうかがっていた。
恥ずかしさで変な汗が出てくるし稲見には悪いと思うが、三浦の下僕とふたりになりたくない。誰にも知られず粥川と同行するのは危険に思えた。
腕を下方へ引かれる稲見は、スーツの襟を押さえて焦った声を出す。
「し、七時前に一件、送りの仕事があるだけだよ。その後は空いてるけど、チケットって何……わわッ!」
春樹がいきなり腕を放したため、稲見は横方向に転びかけた。歪んだスーツとネクタイを整えつつ、笑って通っていく社員に作り笑顔を向ける。春樹は稲見の斜め後ろに移動し、粥川に向かって深々と頭を下げた。
「稲見さんと行きます。チケット、ありがとうございましたっ」
鼻息も荒く顔を上げる。粥川はえくぼのない顔で春樹を一瞥した。
「そうですか。遅い時間なので気をつけて。お先に失礼します」
会釈して去っていく粥川は、ロビーを行き交う社員と何ひとつ違わない。
館内に短い音楽が響いた。社の終業を告げるものだと、仏頂面の稲見が言う。
吹き抜けの天井を仰いだ。幾何学模様のガラス建築は洗練されており、夜へと移る空を細かく切り取っている。
稲見の小言を聞き流しながら出入り口に向かう。どこかに父がいる冷たいビルから、一秒でも早く離れたかった。
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