Cufflinks
第一話・焔 第三章・2
『売ってもいい贈り物なら、どうかなさらないでください。あなたのお心がそれで満たされるとは、とても思えません』
塔崎の感情など一切考えない春樹の内側から、勝手に出ていった言葉だった。あれを塔崎は春樹の優しさだと思い込み、父の社の周りをうろついてまで春樹の情報を得ようとした。ひいては粥川の策略の幕開けを助けたのだ。
考えれば考えるほど、春樹の愚かさが今の状況を作っていると思い知らされる。
食後の挨拶をし、高岡を見た。何もしていないと気が滅入るばかりだ。
「あの、訊いてもいいですか」
「何だ」
「高岡さんって、右利きじゃ……」
春樹は高岡の左手を見ながら言った。包帯を巻き直した右手ではなく、高岡は左手で書いている。右手で書いたものと遜色なく見えたので、書き始めたときは疑問に思わなかった。
書き終わってペンを置いた高岡が、薄く笑って春樹を見た。
「たとえ骨折しても客の前で鞭を振るわなくてはならん。両手が使えるようにしてある」
高岡の笑みがさらに冷たいものになる。本能が立ち上がれと言った。
が、椅子から尻がほんの少し浮いたところで高岡に後ろをとられた。
椅子を蹴られ、上半身をダイニングテーブルに押し付けられる。両手は背後でつかまれた。
「買い被りだと言ったはずだ。仔犬ちゃん」
うなじのすぐ後ろで、高岡の愉快そうな声がした。鞭の傷がある背中にこそ触れないが、脚の間に性的な意味をもって膝を入れてくる。指先で耳の後ろや後頭部をゆっくりすかれる。耳朶を爪の先で引っかかれ、音をたてて空気を吸い込んでしまった。すぐ後に吐く息が熱い。頬が接するテーブルに、丸い呼気の跡ができた。
「利き手で殴る価値もない犬だという発想は、ないようだな」
あざけりを含んだ声で我に返った。自由になった手を振り回す。高岡はソファに腰掛けるところだった。
敵は安全圏に逃げることに秀でている。春樹の攻撃が決まったためしがないので、安全圏と呼ぶには語弊があるかもしれないが。
怒らせるな、やめろ、と内なる声が叫ぶ。
自殺未遂という人生最大の愚行をしたのだ。多少殴られるくらい、どうということはない。
両手を握りしめ、新田が帰ってから思っていたことをぶつけた。
「塔崎様からの旅行券なら、今日持ってこなくてもいいじゃないですか! 煙草の火を押し当てようとするなんて……! もしも修一の手に火が残る灰が落ちたら、どうするつもりだったんですか?!」
高岡があごをわずかに引いた。双眸が鈍く光る。
「新田の手には落とさん。自信のないことはしない。お前は仮定の話をする前に、新田の男気に惚れ直したらどうだ」
「言われなくても、ちゃんと好きです! 好きなのは修一だけです!」
黒いモヤが肋骨を束ねる骨の真ん中を包む。そこが痛んで顔をしかめそうになったが、何とかこらえた。
「結構。では訊くが、礼状を出すのは早いほうがいいか、遅くてもいいか。どちらだ」
「それっ、それは……早いほうが」
「そうだな。俺は明日の早朝から他県での仕事だ。だから今日持ってきた。異論はあるか」
「……いいえ」
高岡が立ち上がる。表情のない顔で近づいてくるため、数歩下がって身構えた。
(殴るなら殴れ。どうせもう修一にアザを見られたんだ)
目をつぶっていたら、頬を指がつまんだ感触がした。薄く目を開ける。
自分の指から米粒をもいで食べる高岡がいた。冷笑ではない笑みを浮かべる。
「飯粒を顔に付けたまま啖呵を切る仔犬は初めてだ」
首から耳まで熱くなった。手の平と手の甲で、顔じゅうを拭う。髪も払った。
この男は本格的にたちが悪い。こいつへの文句など、泣きながら吐き出したことも少なくないから別にいい。
ばか面下げて新田が好きだと言ったことが耐えられなかった。
手紙を書き終えたときに言えばいいではないか。米粒の付いた顔を見ながら髪をすき、膝を差し入れ、人の呼吸を乱れさせたのだ。卑猥で卑怯で底意地が悪くて野蛮な狂犬め。
吹き出す一歩手前の顔をした高岡が、ダイニングテーブルをコツコツと叩いた。
「仕事を続けようが辞めようが、自筆で礼状を書く機会は間々ある。見本を書いておいた。自分に合わない、使わないと思う言葉は書き換えろ。丁寧に書けば失礼にあたらない。書いたら極力早く稲見さんに渡せ」
唇の端を上げた高岡が玄関に向かう。靴を履くのも玄関ドアを開けるのも、いつもの自然の動きだった。火のついた煙草を握りしめて数十分しか経っていないとは、知らない人が見たらまったくわからないだろう。
「前にも言ったと思うが」
閉まりかけたドアが開き、にやついた顔がこちらを見た。
「寝る前の腹筋運動を日課にするように」
春樹は言い返す前に腹を触っていた。塔崎と食事をしたときと違い、さほど膨らんではいない。
わかりました! と怒鳴ったときには、玄関ドアは静かに閉まっていた。
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