Cufflinks
第一話・焔 第三章・1
「首吊り自殺は楽だそうだな」
見上げた高岡の顔が揺れた。頬の湿布が、伝わる液体をせきとめた。
「泣けば済むと思うか。実に羨ましい性分だ。思慮の浅さも惚れ惚れする」
高岡がスーツの上を脱ぎ、浴衣の帯を手に取った。投げ広げられた帯の端が、春樹の膝に触れる。
反射的に飛びのいた。勢いで窓側のベッドに半身が乗る。体勢を立て直す前に、高岡に押さえ付けられた。
「新田がどれほど傷付くか、考えてみようとはしないのか」
仰向けにさせられた。左手だけで扱うから勝手が違うのか、性急ではない。脚の間に高岡の膝が入る。ダメージを受けた体の上に、怖い男が乗った。春樹のシャツのボタンに、手がかけられた。
男が春樹を見下ろしている。切れ長の光る目が、フレームのない都会的な眼鏡に変わった。
眼鏡の奥の目が一重まぶたになる。頬骨の高い、無駄な肉のない顔に化ける。
ざらざらした醜い声を持ち、棒のような鞭で春樹を打ち据えた男が、そこにいた。
感情のわからない目をした男────三浦勇一がいる。
「い…………!」
舌が思うように動かない。三浦の左手を強くつかんだ。三浦は爬虫類のような男だ。体温も低かった。今つかんでいる手はあたたかいが、細かいことはどうでもいい。この危機を脱するのだ。
三浦の左手に噛み付いた。噛んでも左手は動じない。この男は種が違う。逃げなくてはいけない。焔の溶鉱炉に突き落とすことを、何とも思わない男だ。
あれに落ちたら自分が何者かわからなくなる。もうキキョウのハンドタオルはない。
目が覚めても、新田を思い出すことができないかもしれない。
桁外れの恐怖が春樹を襲った。新田のいない世界。好きな人のいない世界。
用具倉庫でキスをしても、一緒に苗を植えても、フェンス越しに指を絡めても、相手が新田だと認識できない世界。
愛してると言ってくれる人がいない世界で、どうやって生きればいい?
噛んでいた左手から口を離した。従順になったと思ったのか、三浦が上半身を重ねてきた。従う気などない。
溶鉱炉に落ちて新田を忘れてしまうくらいなら、この男を殺して自分も死ぬ。今度こそ死ぬ。死んでみせる。
三浦の首を絞めようとした。腕を払われるが、何度も挑んだ。春樹は両手で、三浦は片手で揉み合ううちに、春樹の右手が何かをむしり取る感触がした。
我に返った春樹が三浦の顔を見る。眼鏡をかけていない。瞳の色も違う。
「新田の名を呼べ。春樹」
ざらつきのない声がした。春樹の左手が男の襟をつかむ。男は春樹に引き寄せられるまま、耳の下を嗅がせた。
血と消毒薬の臭いに混じって、高岡の香りがした。
「……高岡さん」
「違う」
高岡がベッドに肘をついた。息があがっている。春樹を見る目には底光りがあるが、ひたいには汗が滲み、右手には包帯が巻かれていた。
「高岡さん……! ごめんなさ」
「違うと言っている。呼ぶのは新田の名だ」
右手が硬直して動かない。高岡の襟から離した左手もそうだ。
赤ん坊のように顔の横で両手を握る春樹を、高岡が真正面から見た。
「新田の名を口にしろ。どれだけ大切かわかるはずだ」
「…………しゅう……いち」
「もっとだ」
高岡の顔を見ながら、修一と言った。もっとだ、と、再度言われる。
悲鳴も出なかった口が、続けざまに新田の名を呼んだ。引きつれていた舌も、痛みを訴えていた喉も、逃げることばかり望んでいた心も、総動員で新田を求めた。
「修一、修一! ごめんなさい修一! 修……い、ち」
つぶった目から涙が落ちた。声を出して泣いても、高岡は叱らなかった。
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