Cufflinks
第一話・焔 第三章・1
ビル二階の廊下を突き当たると、消毒薬の臭いがした。はめ込みガラスがある木製扉の内側は、狭い待合室だ。泥酔した女性が長椅子で横になっている。夜の街で働いているのか、鮮やかなレモン色のスーツを着ていた。付き添いらしき女性が高岡を上から下まで眺め、春樹を珍しそうに見た。
女性の視線にとまどいながら、隅の椅子に腰を下ろす。高岡は受付カウンターに向かった。カウンターには天井まで鉄格子が入っており、格子の幅も狭い。今までに入ったことがある病院にはない雰囲気だった。
「受付の横が診察室だ。行け」
春樹の隣に腰掛ける高岡は、普段と変わらない顔色になっていた。しかし、時おり遠くを見るような目をする。
「あの、高岡さんは」
「同じことを二度言わせるな。何度言えばわかる」
高岡の声は怒気を含んでいた。追い立てられるようにして椅子から離れる。
あんなに血が出たのだ。高岡を先にと思うのは、普通のことではないのか。
慣れ親しんだ反抗心を抱きながら、春樹は診察室に足を踏み入れた。
ごま塩頭で四角い顔の、頑健そうな医師が春樹を一瞥した。上下に分かれた白衣を着ている。
会釈して黒い丸椅子に座る。顔と口の中を見られた。目をライトで照らされ、催淫剤を打たれた注射痕も見られた。
「十六で、男か。やられたそうだな。ケツは我慢ならんほど痛むか。ケツと顔以外に傷はあるか」
医師が野太い声で言う。受付にいた看護師が入ってきて、春樹は下を向いた。耳まで熱くなる。
「い、痛みは我慢できます。他の傷は……背中を打たれました。鞭で……」
「服を脱いでそこに上がれ。横向きでいろ。薬をキメたようだが、抜けとるから心配いらん。多少沁みるが我慢しろ」
医師の診察は素早いものだった。尻の内診から始まり、すべての処置が速い。体内の洗浄もあっという間だ。消毒されたり薬を塗られたときは痛んだが、非常に手慣れている感じがした。
顔に貼られた湿布を気にしながら服を着た。看護師が高岡を呼ぶ。診察用ベッドを隠す衝立(ついたて)の向こうに、高岡が座る気配がした。
「は! これは派手にやったな。少しの間気が遠くなっただろう。坊やと痴話喧嘩か」
医師の言葉に、シャツのボタンをはめる手がとまる。
「僕の不注意です」
「ふん。嘘が上達せんな。包丁でやったか。通報してほしいか?」
「いえ」
答える高岡の声は笑っていたが、春樹は息をつめるばかりだった。シャツの胸をつかみ、リノリウムの床を見る。
「坊やは一、二週間休ませてやれ。坊やの性病の検査は? 縫うが麻酔は要るか」
「両方とも要りません」
「空元気だけは変わらんな」
ここは高岡のかかりつけなのだろうか。医師は高岡を知っているようだ。かすかな金属音と看護師の足音しかしない。しばらくして、快活な医師の声がした。
「坊や。もう待合室に行っていいぞ」
春樹は静かに衝立をずらした。高岡の横顔には苦悶の表情はないが、こめかみに汗が残っていた。
高岡と医師の横を通り過ぎようとしたとき、何かに左腕をつかまれた。高岡の左手だった。
「何だ、いい年をして。放してやれ」
カルテに書き込む医師が言うのだが、高岡は聞き入れるつもりはないらしい。左手で春樹の腕をつかんだまま、右手を看護師にあずけている。包帯を巻く看護師が、ちらと春樹を見た。
「先生は先ほど、少しの間気が遠くなっただろうとおっしゃいました」
医師が呆れた顔つきで高岡を見る。
「傷を見ればわかる。何だ。鉄剤でも欲しいのか。言っておくが輸血は必要ないぞ」
「この子が止血をしました。この子のおかげで、僕は三途の川から戻ってこられたのでしょうか」
医師が春樹の顔を見た。春樹は高岡を見る。医師が溜め息をつき、頭を横に振った。
「これだからお前は身を固められんのだ。褒めたければ自分で褒めろ。坊やの止血は的確だ。よくやった。それにひきかえお前は何だ。十六の子どもに無用の心配をかけてどうする」
「改めます」
誰が見ても小言を言われていると思うのだが、高岡は微笑んでいた。
待合室に戻って精算するまで、春樹の左腕は高岡につかまれたままだった。
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