Cufflinks

第一話・焔 第三章・1


「ち、血をとめないと」
 口に出したはいいが、どうしていいかわからない。高岡の肌は白いままだ。
 高岡はどうしていた? 最初に自分で傷をふさいだとき、何をした?
 伏している高岡を見て、記憶を追いかけた。薬箱を取りにいき、脱衣所に寄って廊下に戻る。
 清潔なタオルを赤い右手の下に敷いた。巻いてあるタオルを取り去ろうとしたが、きつく結んであるのでほどけない。タオルと、その下のハンカチも鋏で切る。
 あらわになった傷口は、春樹が思っていたよりも大きかった。
 手の平の下三分の一ほどの位置が、真一文字に切れている。深い傷から、新しい血が筋を作って流れていた。
 薬箱からガーゼを出して傷口に当てた。高岡はまず、ハンカチできつく縛っていた。片手と歯で結んだとはいえ、高岡の力は春樹より強い。人を縛る技術にも長けている。
 そういう男が縛ってもとめられない出血なのだ。春樹が縛ってどうにかなるとは思えない。
 春樹も切り傷を作ったことはある。こんなに深くも大きくもないが、強く押さえれば一時的に血がとまった。
「それと同じようにするには……」
 傷に当てたガーゼの上に、敷いたものとは別のタオルを乗せる。その上から手で強く圧迫した。痛みで高岡がうめくかと思ったが、高岡の表情は変わらない。しばらく圧迫した後にタオルをどけ、包帯を巻いた。目いっぱいの力で強く巻く。数十秒と経たないうちに、包帯が赤く染まり始めた。
「高岡さん!! 起きてください! 目を覚まして!!」
 春樹はまた別のタオルを高岡の右手に被せ、両手で体重を乗せて圧迫した。敷いたタオルを染める血の量が多い。胃がせり上がってくる。
「高岡さん! 高岡さん!」
 一切の反応がないのと、体の冷たさが気になる。高岡の髪の生え際や首の下には、冷たい汗が滲んでいた。呼吸も浅くて速い。
 少しでも呼吸が楽になればと思い、高岡を仰向けに寝かせた。意識のない成人男性は重い。息を切らして寝室から毛布を持ってくる。毛布を高岡にかけてからリビングに行き、ソファのクッションを持ってきた。
 傷付いた右手の下にクッションを差し入れた。傷を心臓から上にするといいと、テレビで言っていた気がする。もう一度呼びかけてみるが、微動だにしない。
「救急車……やっぱり救急車を呼ばないと」
 這って寝室に入り、高岡の携帯電話を開いた。一を二回押したところで、タイヤが鳴る音が聞こえた。
 玄関ドアに耳を当てた。非常階段を人が駆け上がる音がする。この階の廊下に、急ぐ靴音が響く。
 呼び鈴が鳴った。ドアスコープの向こうには、柔和な表情ではない壬がいた。
「壬さん!」
 悲鳴に似た春樹の声に迎えられた壬は、ひと目で状況を察したようだった。
 土足と血で汚れた廊下。リビングの入り口には、血まみれの包丁。
 高岡は右手を血染めの包帯で巻かれて倒れており、意識を失っている。
 春樹にしても普通ではない。鏡に映してはいないが、顔は腫れ上がっているだろう。シャワーも浴びていないので、三浦兄弟の体臭もわかるはずだ。
 壬は部屋の一部と高岡、そして春樹を見終えると、高岡の体を廊下の壁から離した。細い体付きなのに、軽々と移動させる。壁と高岡との間に隙間ができると、壬は高岡に馬乗りになった。
 次の瞬間、壬は何のためらいもなく高岡の頬を張り飛ばした。
「み、壬さんっ!」
 遠慮のない叩き方だった。春樹は小柄な壬の胴にしがみついた。
「やめてください、壬さん! やめて……!」
 春樹にしがみつかれた状態で、壬が再び高岡を叩く。腰の入った叩き方というのだろうか。肉を打つ音がした瞬間、春樹の体が浮きそうになる。高岡の右手も一度落ちたが、壬がクッションの上に戻した。
「高岡! 商品がいるのに休むな!」
 灰色の目が薄く開いた。怪訝な目つきになる。が、煩わしいと言わんばかりに、まぶたを閉じようとした。
「あんたにとってただの商品じゃない子だ! 心配させるな!」

 (…………え?)

 壬が右手を振り上げた。打ち下ろされる寸前、高岡の左手が壬の右手首をつかんだ。
「怪我人を……殴るな」
 言いながら、高岡が自分の右手を見る。壬に助けられて起き上がる際に、毛布とクッション、タオルも見た。
 腋の下に肩を入れる壬を見て、次に廊下に突っ立っている春樹を見る。
「……仔犬ちゃんの処置か」
「えっ」
「圧迫止血をしたようだな。体温低下を防ぐために毛布をかけた」
 必死に考えてしたことだが、いけなかったのだろうか。春樹は無言で首を縦に振った。
「仔犬ちゃんにしては、まあまあだ。和幸。お前は帰れ」
 壬の肩を借りて立つ高岡が、尊大な態度で言った。血が舌にも巡り始めたのか、狂犬の物言いに戻っていた。
「帰りたくなったら帰るよ。お気遣いなく」
 高岡の話し方には慣れているのだろう、壬は意に介する様子もない。高岡を支えながら靴を履き、玄関ドアを開けようとする。高岡が壬とドアの間に脚を入れた。
「お前の助けが必要ならばそう言う。帰れ」
 壬が高岡を見上げた。涼しげな一重まぶたがピンと張る。
「あんたは永久に貧血起こしてればいいよ。僕はあの子が心配なの。病院に送るまで、気になって寝られやしない」
 やはり壬は見抜いたのだ。春樹が何者かの暴力に屈したと。高岡はあきらめたように下を向き、春樹を一瞥した。
「仔犬ちゃん。登校するためのものを持て」
「は、はい」
「鍵はかけるな。業者が入る際、邪魔になる。朝になったら俺が施錠する」
 壬がドアを開けて手で支える。高岡はわずかにふらつきながらマンションの廊下に出た。
 春樹が高岡に近づき、通学鞄と紙袋を廊下に置いた。高岡が振り返る。
 内ポケットに携帯電話を戻した高岡のジャケットを、持ち主にかけた。背伸びする春樹を高岡が見据える。
「血がたくさん出たから……着たほうがいいと思います」
 満月に近い月を背に、高岡がジャケットの襟を押さえた。片袖に手を通し、髪を整えてマンションの外を見る。
 動物を思わせる瞳が月光に映えた。自然の光を栄養にしているようで、春樹はわけもなく安心した。


次のページへ