Cufflinks

第一話・焔 第三章・1


 部屋につくと、背中を見せろと言われた。ソファにうつ伏せになるように指示される。
 手を洗った高岡が薬を用意する間、胸の黒いモヤはどんどん増えた。アメーバが増殖するように広がっていく。
「苦しい……」
「苦しいなら座れ」
 上半身を起こし、高岡に背を向けた。アンダーウエアを首の下までまくる。
「ガーゼくらい当てろ。傷に障るし、悟られる。下着を着ても血が滲めば、シャツの上からわかるだろう」
 消毒薬の臭いと、傷を刺激する痛みが同時にした。春樹は顔をしかめてうつむいた。
「ガーゼ、自分ではできないんです。学校にいるときもお通夜も、ブレザー着てました」
 雑居ビルの医院では、飲み薬の他に消毒薬やガーゼ、塗り薬、医療用のテープも出された。
 登校前に薬を塗ってガーゼをあてがおうとしても、出血している箇所から大きくずれる。テープも上手く扱えず、厚めのアンダーウエアでごまかしていた。
 塗り薬を薄く塗ったガーゼを当てられ、テープでとめられた。アンダーウエアを下ろそうとした手が押さえられる。
「人の話を聞け。血のついた下着を着るな。脱いでシャツを軽く羽織っていろ」
 コンパスの長い高岡は、あっという間に寝室に入った。何やら物色する気配がする。着替えを探しているのだとわかったが、これまでのように頭がカッとしない。
 黒いモヤが喉まで侵食している。胸を叩いても深呼吸しても、一向に良くならない。
 息が苦しい。胸の芯が痛い。
 寂しそうに校庭を掃く新田を見たときより────痛い。
 足もとに影が落ちる。春樹の着替えを持つ高岡の影だった。
 Tシャツと前開きのパジャマが、脚の上に置かれる。高岡が貼ったガーゼがめくれないよう、そっと着ながら言った。
「高岡さん……強く叩くときは、いつも左手でした」
 薬を片付ける高岡の手が、一瞬とまった。
「最初にされた夜の翌朝も、電話を折り返さなかった日も、伊勢原様に置き去りにされて、助けにきてくれたときも。塔崎様に尾行されたときも、耳をつねったのは右手じゃなかった。全部、左手でした」
 高岡は黙々と片付ける。パジャマの両袖を通し終えた春樹は、高岡に向き直った。
「自殺をとめてくれたとき以外、左手でした。右利きなのに安易に右手でぶたなかった。ひどい人じゃなかった」
「買い被りだ。無駄口を叩く暇があるなら前を閉じろ」
 ボタンを掛ける高岡の左手を握った。あたたかい手を離さずに、タクシーの中で固めた決意を告げた。
「社との交渉をしないでください。僕は今の仕事を続けます」
 高岡の目尻が吊りあがった。眉根にしわが寄る。
「何を言っているのかわかっているのか」
「わかってます」
 春樹の手を引き剥がした高岡が、未熟な男娼の両肩をつかむ。
「仕事を続ければ危険も辱めも避けられない。手に負えない客は少なくない。隠し撮りをされることもある。お前程度の犬では社は積極的に動かん。映像が流出しても回収などされない。新田に見られてもいいのか」
 灰色で切れ長の目に映り込む春樹の顔は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「僕は今日、美しい少年の映像を見ました」
 肩をつかむ高岡の指先に、少しだけ力が入る。
「市場に出回った映像もあるそうですが、少年は立派な男性になりました。誰にも負けなかった。映像で一生が変わるわけじゃありません」
「俺とお前とでは事情が違う。新田に見られたらどう言うつもりだ」
「何も言いません」
 高岡の、形の良い唇が薄く開く。少年のときと同じ形の唇が、言葉を手繰り寄せようとしていた。
 眼光は鋭いままだが、瞳がかすかに左右に揺れる。初めて見る表情だった。
「言い訳をしないのか。新田が去ったらどうする」
「一日でも早く僕のことを忘れてくれるように、祈るだけです」
 動物に似た目が揺れなくなった。視線がぶつかる。ぶつかった視線は反発することなく、糸を紡ぐように重なった。
 目を閉じろと言われた気がして、まぶたを下ろした。数秒後に滑るようなキスをされた。一度離れた唇を待ったが、いつも来ていたところには降りず、頬に押し付けられた。頬から去った唇は耳の後ろに触れ、すぐに離れる。
 髪に高岡の指が滑り込み、頭を抱かれた。高岡の鼓動が乱れたようだったが、確かめる前に押しやられた。
「ひとつだけ約束しろ。二度と命を捨てようとするな」
「約束します」
 春樹の目をしばらく見ていた高岡は、音をたてずに立ち上がった。ローテーブルにあった合鍵を持つ。
「俺に返したいものはこれか」
「……そうです」
 少し間をおいた後の返答に、高岡は眉をひそめた。合鍵をスラックスのポケットに入れ、スーツの上を手にする。
 内ポケットから、自分のものではない携帯電話を出した。
「不必要な動画は消した。失くさないよう気をつけろ」
 受け取った携帯電話を開こうとしたが、体は高岡を追っていた。玄関にいる高岡に靴べらを手渡す。
「携帯電話を取り返してくれて、ありがとうございます。手に怪我までさせたのに、仕事することを選んでごめんなさい。お寿司食べて勉強して、早く寝ます」
 高岡が煙草を取り出した。光を失わない瞳をこちらに向ける。
「あれは事故だと言ったはずだ。誰が何をしようが、自分の人生は自分で決めるものだ。休みは二週間ある。熟考して結論を出せ。新田を簡単に諦めるな」
 正座して高岡を見上げた。使い終えた靴べらを受け取る。
「修一を諦める気なんてありません。でも、この暮らしも諦めません。家政婦さんの職を奪う権利はないです。今の僕を雇ってくれるところもないでしょう」
「他の仕事ができないという理由で続けられるほど、甘い世界ではないぞ」
「努力します。怖いけど」
 ライターの金属音がする。火が照らす高岡は目を開けており、視線が紡がれた。先に目を逸らしたのは高岡だった。
「怖さを理解しただけいいとするが……強情だな、お前は」
 いつもの香りと煙草の煙を残して、高岡が出ていった。
 施錠してから寝室に入る。成瀬が直した引き出しの隅から、新品のハンカチを取り出す。
 ハンカチを広げると、銀白色のカフスボタンが煌めいた。
 何故返さなかったのだろう。留め金を壊し、叱責を恐れたからだろうか。
(返せって言われなかったからだ。それだけだ)
 黒いモヤが一気に広がる。頭まで侵略されないうちに、元凶である輝きをハンカチで隠した。


<  第三章・2へ続く  >


【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました!
続きは第3章・2のupまでお待ち下さい。
高岡の少年時代はずーっと後に番外編で書く予定なのですが、
紙の原稿に書いた時点で、本編にチラチラと入れていました。
予定どおりに入力したのですが、散々迷ってのupです。
本編にリバ的な場面はありませんが、ほんの少しでも
リバを臭わされるのは絶対に嫌、というご意見を目にするので…。
書いてから言うのも何ですが、キャーッと思った方、スミマセン!


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