Cufflinks
第一話・焔 第三章・1
「お話はこれだけですか」
粥川から笑顔が消える。プレーヤーの蓋を弾く音が空回りした。
「この映像を見て、何も思わないのですか」
「美しくて誇り高い少年ですね。僕の間抜けな映像より、価値があると思います」
言葉が独り歩きを始める。腹の奥で赤い猛火が生まれていた。自分ではコントロールできない、いきどおりの炎だ。
「誇り高い。同じ立場で見るとそう見えますか。少年愛も男色の趣味もない僕には、滑稽でもの悲しく見えますが」
滑稽? 滑稽な遊び道具を、芝居を打ってまで調達する者は何だ? 阿呆か。
粥川がビジネスバッグを開く。内側にウレタンスポンジが貼られたバッグに、DVDプレーヤーが入れられる。
バッグのファスナーが閉じる音に、口笛が混じった。憤怒の炎が燃え盛り、春樹は言葉を解放した。
「質問があるのですが」
「何です?」
「紫色のキキョウが刺繍されたハンドタオルを切ったのは、あなたですか」
片頬にだけえくぼを作り、粥川がうなずいた。横から覗き込むように見られる。
「三浦様のご命令で。立場をわきまえない奴隷への罰として、大切にしていそうなものがあれば壊すよう、言い付かっておりました」
鼻唄でも歌い出しそうな、弾む声だった。
「先ほどの映像を僕に見せた理由は……?」
「三浦様のお慈悲です。土産を用意した方法を、織田沼の息子から説明させるのは酷とのお考えです。あなたに画像を見せることは彼も承知しています。涼しい顔でどうぞなどと言っていたが、心中如何ばかりか」
粥川が吹き出した。春樹は助手席のドアを押す。粥川に呼びとめられなければ、跳ね返らんばかりにドアを押しきっていただろう。
「勇次様があなたをお気に召したそうです。お尻に残したお小遣いと同額程度で数時間とおっしゃっています。泊まりはありません。丹羽さんからの条件があればお伺いしておくよう、言い付かっております」
この狂信的な社員は、断れば新田の名を出す。下劣な男に新田の名を言わせる理由はない。
「僕の所有者は社です。二週間の休暇中ですし、お引き受けできるかどうか、社と相談してお返事します」
運転席と助手席の間に、冷気の幕が下りた。粥川の目が情のないものに変わる。
「意外と強心臓ですね。調教師に包丁を向けるだけはある。仕事も続ける気でいるとは驚きだ。厚顔無恥なSMクラブ経営者に言いくるめられましたか」
自宅の電話機には盗聴器が仕掛けられていた。粥川は下らない機器で、春樹の愚行とゲームを「聞いて」いたのだ。
「あれは事故です。音だけで判断されたようですが、事故ですよ。勉強があるから帰ります。おやすみなさい」
車から離れた春樹は、徐々に足を速めた。助六寿司の包みを抱えてひたすら歩く。
(どうしてあんなことを言った。またあの狂人の小便を飲むのか。酒臭いキスを受け入れるのか。勇次だけではない。一度は死のうとしたのに仕事を続けるなんて、どうかしてる)
混乱の理由が判然としないまま歩き続けたら、地下鉄の駅もバス停も通り過ぎていた。
車道に出て大きく手を振る。タクシーに乗り込んで自宅マンションの所在地を告げ、車窓を見た。
汚いレールを自分で敷いた。窓に映る春樹の顔は怯えていたが、目に光る液体はなかった。
タクシーの運転手に料金を払い、自宅マンションの駐車場に入った。ゲスト用のスペースに、見慣れた外車がある。左ハンドルのキザな外車の運転席に、やはり見慣れた男がいた。
古い洋館の窓の前に立ち、ぞんざいな動作で服を脱いだ過去を持つ、美しい男だ。
「土産を渡しにきた」
助手席側のドアを開け、高岡が言った。乗れ、というように高岡が助手席を指し示す。春樹はかぶりを振った。
高岡が鋭い目をこちらに向ける。底光りが窓辺の少年と変わらない。
ずっと前から同じ目をしていたのだ。鞭で打たれても、撮影されても、高岡は奴隷ではなかった。高岡の瞳の輝きは、銀白色のカフスボタンにも似た強い光は、誰も消すことはできなかったのだ。
黒いマスクで顔を隠され、泣き叫ぶだけの春樹とは違う。意気地のない教え子は、たった一度撮られた映像に怯え、嘆き、半狂乱になった。自分の映像に固執し、高岡に苦痛を与え、恥をかかせた。
春樹は助手席に近づき、通夜ぶるまいの寿司を差し出した。
「お通夜のお寿司です。一緒に食べてください」
「断る。お前が食べるべきものだ。乗れ」
「高岡さんに! 高岡さんに、お返ししたいものがあります。どうしても乗れというなら、大声を出します」
苛立った高岡が溜め息をついた。光る目を伏せる。ほっとした春樹が体の力を抜いたのを、高岡は見逃さなかった。寿司を取り上げて自分の脇に置き、春樹の腕を引く。春樹は片手で車の上部をつかみ、声を張り上げた。
「お寿司を盗られました! 泥棒っ! 人さらい! たすけ」
シートについた腕を強く引かれ、包帯を巻いた右手で口をふさがれた。
「ばかかお前は。見られて困るのはお前だろう」
傷のある手を噛めない春樹は、微動だにしない。高岡が車外を見た。舌打ちしそうな顔だった。
「故人を供養するものだ。しっかり持て」
寿司の包みを持たされ、高岡に続いてエレベーターに向かった。
次のページへ