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第一話・焔 第三章・1



 『可愛い顔して気が強い。織田沼のガキとそっくりだな』

 三浦のペントハウスで四つ這いになって水を飲んだとき、勇次が言っていた。
 あのときは三十四歳の高岡をガキと呼ぶ三浦兄弟の年齢が気になったのだが、違う意味があったのかもしれない。
 粥川は高岡を別腹の子と呼んだ。ベップクという響きに人の情は一切なく、高岡を見下げる姿勢が伝わってきた。
 粥川でさえそうなら、三浦兄弟は────────
「たす、助けを呼ばないと」
 寝室に飛び込み、クローゼットを開ける。壬の店の袋から店のカードを出した。受話器をつかんで壬の店の電話番号を押す。あとひとつ押すと呼び出し音が鳴るというところで、指がとまった。
 高岡の命令に反して洗いざらい話すことは簡単だ。だが、高岡はそれを望んでいるだろうか。これ以上壬を巻き込むことを、高岡は許すだろうか。
(あいつの望み? 許し……?)
 春樹は受話器を置き、電話台の前にしゃがみ込んだ。両手を組んで口に当てる。
 考えたことがない。高岡が何を望んでいるかなど。高岡が春樹を許すかどうかなど。
(何でこんなこと考えるんだ。高岡が勝手にやってることだ。あのゲームも、これも)
「……違う」
 勝手にやっているのではない。春樹が死を選ぼうとしたからだ。
 切り裂かれた新田のハンドタオルを見て絶望し、卑猥な動画の流出に怯えて死のうとしたからだ。

 『生きる道があるのに利用しないとはな。要らないなら誰かに譲れ』

 春樹が商品だからではない。自ら命を絶つことが、高岡は許せないのだ。
 口を酸っぱくして身を守れと教えられた。ただ一度振るわれた鞭も、電話を折り返さなかったことに加えて、危険を察知するための想像力が欠けていたことへの罰だった。
 鞭を振るって教えようとした命の大切さを、春樹は踏みにじった。
 ふらつきながら立ち上がり、寝室に戻る。
 自分の戦績が気になるだけなら、もう放っておくはずだ。合鍵を置いていった商品になど用はない。
 高岡は完璧主義者だと稲見は言った。高岡はしつこいと壬も言った。
 春樹に自殺させないために、ちっぽけで間違っている意地をもぎ取るために、高岡は勇次についていったのだ。
 情事の動画が入った携帯電話を取り返せば、春樹が愚行を繰り返さないと考えたのだ。
 どうやって取り返すのだろう。暴力に訴えるのだろうか。危険なことはしないと言っていた。高岡の言葉を鵜呑みにはしないが、怪我をしている高岡は不利だ。
 土下座でもするのだろうか。三浦とは違い、勇次は土臭いサディストだ。動物的な直感がある。高岡が心から頼んでいるかどうか、すぐに見抜いてしまうだろう。同じサディストの高岡に、それがわからないはずもない。
(わからない。待つしかない)
 机の棚から明日のテストの教科書を出す。教科書を開いた途端、胸にあった黒いモヤが頭を制圧した。
 教科書に丸印がいくつもつけられている。テストは三日間ある。明後日の教科分も、すべて見た。
 すべての教科書に印が残されていた。少し右上がりの、勢いのある印は見たことがある。新聞にも、今日のテストの教科書にもあった。これは高岡がつけた印だ。
 成瀬に報酬を支払うために明け方に来た高岡は、全教科の山を張ったのだ。
 黒いモヤに負けないよう、机の脇に置いた通学鞄をつかむ。無理な姿勢でひったくったためか、脚の付け根がちくりとした。ポケットに手を入れる。
 取り出した異物は、高岡のカフスボタンだった。
 今朝ホテルを出るときに、サイドボードに置いたカフスボタンをポケットに入れた。留め金を壊したことで叱られるのを恐れたが、謝罪して返すべきだと持ってきたのだ。
 カフスボタンをシャツの袖口に当ててみた。銀白色の装身具だけ浮いて見える。
 いつか、こういうものが似合う大人になれるのだろうか。尻尾の振り方を間違えて、助けてもらうばかりの自分が。
 頭を激しく横に振った。モヤに消えろと命じながら、丸印がついたところを勉強した。
 高岡が残した道しるべを、懸命に追った。


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