Cufflinks
第一話・焔 第三章・1
背中の痛みが引かない。痛み止めが効いていないのではないだろうか。熱をもっているようだ。
電話機の設定を解除し終えた春樹は、再びソファに腰を下ろした。夜間も呼び出し音が鳴るように、元に戻したのだ。粥川に設定されたままにしておくのが嫌だった。そんな理由で始めた作業に、三十分もかかった。
まだ制服から着替えていなかったが、春樹は横になりクッションを抱いた。
高岡の止血に使ったクッションはなくなっていた。タオルや包丁も処分されていた。毛布は洗って干されており、先ほど取り込んだ。壁も、拭ききれなかったのか壁紙を貼り直した箇所があった。虫眼鏡で見ないとわからないのではと思うほど、きれいに直されている。
十六年前に建てられたマンションの壁紙と同じか、同じに見える壁紙を用意することは、容易なことなのだろうか。夜中の三時に高岡から依頼され、血痕をすべて隠して掃除をし、盗聴器もチェックする。学習机の引き出しも直した。
それらを成瀬はひとりでやったのだ。
(僕はどんな仕事ならできるんだろう。体を売る以外、何が……)
リビングの電話が鳴った。電話機の液晶画面に、見覚えのある番号が表示されている。忌々しい『T』の番号だ。
受話器を取り上げ、丹羽ですと言った。自分でも弱々しく聞こえる声だった。
「テストはどうだった」
高岡の声はいつもと同じだ。名乗りもしなければ、春樹の体調を気遣う言葉もない。
何とも思っていないのだ。死ねないばかりか、高岡に刃物を向けた商品に見切りをつけた。
だから合鍵を返したのだ。
「……高岡さんに、関係あるんですか」
沈黙が受話器を満たした。正確には、高岡から少し離れたところで音楽が流れている。車が走る音もしている。
車の運転中に電話をかけてきたらしい。
「では訊き方を変えよう。山は当たっていたか」
今度の声には嘲笑が含まれていた。春樹は目を閉じ、胸に巣食う黒いモヤに散れと念じた。
「六、七割当たってました」
「そうか。俺もまだ捨てたものではないな。用件を伝える。聞き漏らすな」
離れたところでしていた音楽が、高岡の車に近づいたようだ。人の声もしている。
(別の車と並走している……?)
音楽を楽しんでいる車から、誰かが高岡に話しかけているように思える。
並走する車の声に、肌が粟立った。並走者の名を確認しようとしたが、高岡の言葉に遮られた。
「家政婦の身内が亡くなったと伺っている。心を乱さず、自分の生活を立て直せ。成瀬に伝えたことを実行するように。画像の流出はないから安心しろ」
「画像の……流出……?」
音楽がさらに近くなる。音楽が、歌が好きな、陽気だが正常ではない男の声がした。
三浦勇次のからっとした声が、はっきりと聞こえた。
「織田沼のボーヤ! ちゃんとついてこいよ!」
『ひとつケリをつけてからの交渉になる』
受話器を落としそうになった。冷たい汗が手の平を濡らす。
「高岡さん、何するんですか! 危ないことはやめてください!!」
トーンの高い排気音がした。勇次が乗る車が、高岡の前に出て高速で走っていったのだろう。
空気を引き裂く音に、交通事故の四文字が頭を駆け巡る。
「車で遊ばないでください! 怪我してるんですよ!」
「少し散歩して、飲んで騒ぐだけだ。危険なことはしない。土産を楽しみにしていろ」
「みっ、土産?」
高岡の車内の音も変化する。エンジン音が変わった。車の速度を増すときの、高岡の横顔が目に浮かぶ。
若々しさと向こう見ずな表情を見せる、端整な顔が。
「お前の携帯電話だ」
常識はずれで好戦的な男からの電話は、唐突に切れた。
「高岡さん! もしもし! もしもし!」
受話器に叫ぶ春樹の声だけが、リビングにこだました。
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