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第一話・焔 第三章・1


 午後になり、自宅マンションのリビングにも陽が射すようになった。
 春樹は食べ終えた牛丼の器に向かって手を合わせ、箸を置いた。情けないことだが、稲見が運転する車中で春樹の腹が元気よく鳴った。稲見が牛丼屋に寄り、買って持たせてくれたのだ。

『家政婦さん、竹下さんだったかな。弟さんが長くないとご存知だったようで、斎場も用意されているそうだよ。社からは献花だけすることになった。香典はきみが持っていきなさい。不安なら僕が同行するよ』

 稲見は竹下と竹下の弟についてのみ話した。春樹の休みのことも、高岡についても、何も言わなかった。
 汚れ仕事をする四十がらみの男は、わかっているのだ。きれいごとは無用だと。春樹にさせている仕事は許されないことで、稲見も悪事の片棒を担ぐ一員なのだと。
 春樹と高岡に非日常的なことが起きたと、稲見は勘付いているに違いない。訊きたいことは少なくないだろう。だが、稲見は温かい牛丼を買っただけだった。
 ダイニングテーブルに置いた茶封筒を開ける。ふくさに入れた香典袋と数珠、白い封筒が入っている。
 白い封筒の中を見る。十万円の現金があった。今月の小遣いとのことだった。
 ダイニングの椅子から立ち上がり、ソファに移動した。ローテーブルに、母の遺影と高岡が持っていた合鍵がある。
 写真立てを引き寄せて、膝の上に乗せる。
「母さんは、何が好きだったの? 牛丼食べたことある? 父さんのこと愛してた?」
 春樹が母に話しかけるのは、久しぶりだった。しんとした部屋で動かない母を見つめ、もう一度訊いてみる。
「僕を、産みたいと思って産んでくれたの……?」
 わかっていることだが、返事はない。写真には何もできない。
 級友と仲違いしたり、夜中に急に発熱したとき、助けてくれたのは竹下だ。
 勇気を出して友達に謝れと言ってくれた。寒い夜でも、悪い片足を引きずってここに来てくれた。
 小さいころ、春樹は夜中の発熱が少し嬉しくもあった。熱くて頭痛もして苦しいのだが、竹下と添い寝できたからだ。
 ふくよかで女性らしい竹下に抱きついて眠ると、体の痛みがやわらいだ。不安も寂しさも飛んでいった。
「僕を見てみたかった? 母さん」
 狂人に殴られてアザのある顔を見たいか? 背中の鞭の痕を見せてやろうか。
 母の遺影を伏せた。音がたつほどの強さで伏せたのは、これが初めてだった。
 一時の過ちで一生を棒に振る。三浦との情事を記録した動画の行方もわからない。高岡が鍵を置いていった今、誰に相談していいかもわからない。
 相談してどうなるものでもないが、優しい人に抱きついて眠りたかった。


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