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第一話・焔 第三章・1
「春樹くん。砂糖、砂糖」
稲見の声だった。眉間にしわを作り、煙草を灰皿に押し付けている。
ここは父の社の旧館だ。本社ビルの裏手にある四階建ての建物で、古めかしい外観だった。座って一服したいという稲見に、旧館内の狭い喫茶室に連れてこられたのだ。
「勉強疲れじゃないのかな。五杯も入れたら、飲めたものじゃないだろうに」
「五杯……?」
春樹の前には湯気をたてるミルクティーがあり、右手には砂糖用のスプーンがあった。スプーンに五杯もの砂糖を入れていたらしい。
「節制は今のうちからしないとね。若さは一時のものだから。もう一本、いいかな」
稲見は春樹の返事を待つことなく、煙草に火をつけた。目を細めて、おいしそうにふかす。
これまでなら胸の中で毒づいていた。ミルクティーに入れる砂糖の量に文句をつけるなら、煙草こそ控えるべきだと。
今の春樹の胸には黒いモヤしかない。新田を拒み、高岡の名を口にすると顔が火照る、あの正体不明のモヤに占拠されている。カップに口をつけずにいる春樹を、稲見が見る。
「二週間の休み、受け入れられたよ。今朝、高岡さんから謝罪と共に申し入れられた」
言われていることがすぐに理解できず、湯気の向こうの稲見を凝視する。
「テスト勉強を渋ったきみを、鞭で打ち据えたと伺っている。今まできみくらいの年齢の子を躾けることがあっても、ここまで打つことはなかったんだけどね」
「そ……ちが、あれは」
稲見は二本目の煙草を半分ほどで消し、周りに目をやってから小声で言った。
「自慢にはならないが、僕はこの仕事をして長い。高岡さんが夜の仕事に移る前からだ。彼が本当に二週間の休みを要するほど打ったとは思っていない」
煙草とライターを胸ポケットにしまいながら、稲見が言葉を続ける。
「社で高岡さんとすれ違った。右手に包帯が巻かれていたよ。慣れない料理でと笑っていたが、彼は右利きだ。普通の怪我とは考え難い」
心臓が喉まで上がった。息が苦しくなり、水の入ったコップに手を伸ばす。
震えた指先がコップを倒しかけたが、稲見が支えた。
「何があったのか訊くつもりはないが、早まってはだめだ。一生続く仕事じゃない。送るよ。後は車で話そう」
レシートを持って席を立つ稲見は、怒っていなかった。同情しているようでもない。
稲見の車は煙草臭かったが、以前のように不快だとは思わなかった。
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