Cufflinks
第一話・焔 第三章・1
「それだけは、勝手に捨てるなって言われたんすよ! 勉強して飯食って、早く寝ろってのが伝言です!」
成瀬が言った。ソファから身を乗り出して、少し心配そうな顔にも見える。
確信した。成瀬は春樹に接近しないようにしているのだ。高岡の命令か、成瀬のポリシーかはわからないが、春樹を怯えさせないようにしている。
ビニール袋の横に、光る小さなものがあった。この引き出し用の鍵に似ていた。
新品に見える鍵を持ってリビングに戻ると、成瀬がまた頭を掻いた。
「急ごしらえなんで、引っかかります。押しながら回すとすんなりいけます。満足な仕事じゃなくて、すんません」
春樹は首を横に振った。何度も振り、顔を覆った。成瀬が作った引き出しの鍵が、涙と一緒に床に落ちた。
「え、ちょっと。あれっ」
成瀬が立ち上がる気配がする。差し出しかけた手を引っ込め、右に左に細かく歩く。
「どうしたんっすか。どっか痛いんっすか?」
涙が次々に落ちる。輝く鍵と、きれいになった床を濡らす。春樹は大きくしゃくり上げ、顔を拭った。
「どこも、どこも痛くありません。ごめんなさい、取り乱して」
「はあ。マジで、大丈夫っすか」
「大丈夫です。引き出しの鍵を直すように言ったのは、高岡さんですか?」
そうです、という返事を聞きながら、引き出しの鍵を拾った。小さな鍵は、金属なのにあたたかかった。
「元どおりにするのが、おれの仕事です。部屋の鍵どうします? 換えたいなら、やりますよ。錠前技師と、鍵師の資格ありますから。午後から家政婦さんが来るって聞いてますんで、見られたくないなら、都合のいい時間に来ます。金の心配ならいりません。前払いで、多めにもらってますんで」
「鍵は……いいです。前払いっていうことは、高岡さんと会ったんですか」
「はい。明け方くらいに彰さん、ここに来ましたから。あと、これ」
成瀬はポケットから出したものをローテーブルに置いた。高岡が持っていた、この部屋の合鍵だった。
「家政婦さんが先に来たら、これで鍵かけて逃げろって。じゃなければ、必要なくなったから返しておくように、って」
高岡のキーケースにあった鍵が、ぽつんと置かれている。春樹はただ見ることしかできない。
成瀬が静かに立ち上がった。キャップのつばを後ろにして被り、一礼して玄関に向かう。
「待って! どうして……必要ないのに、高岡さんは僕に構うんですか? 修一のタオルを捨てないで、机の引き出しを直すんですか! なんでこんな……いつも……!」
涙は出ないが、唇とあごが見苦しいほどに震えた。胸と腹の間が強く絞られる。
仕事を終えた業者は、困惑した表情をみせた。修一とは誰だと思うだろう。ダイニングの椅子にすがりついて詰問する春樹の心など、わからなくて当然だ。春樹にもわからないのだから。
成瀬は鼻の下をこすり、首をかたむけた。靴を履いてこちらに向き直る。
「いつも、こうなんすよ。彰さんは、こういう人です」
もう一度礼をして、成瀬は出ていった。
必要なくなった。高岡に合鍵を持たれる必要がなくなった。
望んだことではないか。解放されたい、部屋に来るなと、凶暴で卑劣な男に抱かれるたびに思ってきた。
ローテーブルの上の鍵に、触ることができない。成瀬が使ったコップだけを持つ。
不安だからだ。ペントハウスで繰り広げられた蛮行と、自分の愚行を思い出せ。色々なことがありすぎたのだ。今後の生活もどうなるかわからない。不安だらけで、落ち着きをなくしているだけだ。
ガラスの割れる音がした。シンクの中にコップが転がっている。
もろいガラスのコップは、オレンジジュースを注いだときとは違う形になっていた。
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