Cufflinks
第一話・焔 第三章・1
社に向かう前に、一度自宅へ帰ることにした。
包丁を振り回した部屋に戻るのは怖かったが、少しでいい。休みたかった。
自宅マンションのエレベーターを降りた春樹は、廊下の中ほどで立ちどまった。玄関ドアの前に男がいる。紺のつなぎを着てキャップを被っている、若い男だ。二十代前半に見える。
春樹は無言で一歩下がった。男がこちらを見る。精悍な顔つきだった。
男が口を開くと同時に、私服の入った紙袋を男に投げつけた。全速力で非常階段へ向かう。知らない男に対する恐怖だけがあった。男が大きな声で名乗る。
「おれ、彰さんに頼まれました! 部屋片付けたもんです! 成瀬っていいます!」
「なるせ……さん?」
非常階段の手すりをつかんで男を見上げる春樹に、成瀬はうなずいてみせた。ゆっくり両手を上げ、体の前後左右を見せるように一回転した。武器はないと言っているようだ。
「彰さんからの伝言があるんで、話せないっすか? 部屋が嫌なら、公園でも、サ店でも、どこでもいいっすから」
成瀬にオレンジジュースを出したら、リビングの電話機を見てくれと言われた。
「盗聴器、もうないっすよ。部屋じゅう調べました。やばいもんは、なんもないです」
春樹は電話の裏や子機のホルダーの下、電話台の開き戸の中と、電話台と壁の間なども見た。電話機や、その他の家電製品がつながるコンセントもチェックする。成瀬にそうしろと言われたからだ。
「コンセントん中も、全部開けました。探知機と目で徹底的に調べたんで、大丈夫です」
成瀬は喉を鳴らしてジュースを飲んだ。口もとを手の甲で拭い、頭を下げながら笑う。
春樹は立ったまま、部屋の中を見回した。血も包丁も消えている。コンセントをチェックする際に気付いたが、家具の後ろも掃除されていた。大掃除の後のようだった。
「まずかったっすかね」
ソファに座る成瀬が、ばつが悪そうに頭を掻く。
「彰さんからの依頼、久しぶりなんで、きれいにしすぎました。仲間はいません。おれひとりで来たんで、ここの住所も、おれしか知りません。ほんとです」
「あの……高岡さんは、なんて……?」
残りのジュースを飲む成瀬が慌てて顔を上げた。すき間のある前歯を見せて笑い、遠慮がちに寝室を指差す。
「机の引き出し、見てみてください」
成瀬を残して寝室に入った。引き出しの中身が散乱していた部屋は、平和な空間になっていた。学習机の、一番上の引き出しを見る。こじ開けて壊された鍵が直っていた。引き出しと天板の端にあった傷がない。
引き出しを開ける。手前のほうにビニール袋があった。袋の中には、切り裂かれたキキョウのハンドタオルがあった。
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