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第一話・焔 第三章・1
職員室に着くまでの間、副担任はよくしゃべった。
教室に春樹の姿がないので森本に訊くと「喉が渇いたと言ってました」と言ったので、自販機コーナーにいるのではと思ったこと、携帯電話を今日は持っていないのか、竹下さんは家政婦だそうだが、ひとり暮らしは生活も乱れやすい、学生食堂で倒れたこともあるのだから気をつけるように────────
春樹は「すみません」「家に忘れたみたいです」「わかりました」と答えた。指し示された受話器を取る。
竹下の声は、静かなものだった。
「学校にお電話して申し訳ありません」
いつものあたたかみがない。竹下が学校に電話をしてきたのは、これが初めてだ。良くない予感しかしない。
春樹は副担任や他の教師に背を向け、受話器を握りしめた。
「携帯、忘れたみたいなんだ。だから気にしないで。どうしたの? 体の具合でも悪いの? 声がおかしいよ」
「弟が────」
小さな声は気丈ではあったが、弟がどうなったとは告げなかった。竹下の弟は病弱で、長く入退院を繰り返している。半年ほど前からは入院する期間のほうが長くなっていた。
おそらく、終わったのだ。
「父さんの会社には……? お葬式、どうするの?」
「会社にはお電話しました。明日が通夜です。葬式は、明後日です」
「今どこにいるの。病院?」
はい、という声の後ろで、エレベーターが開く音が聞こえる。
「会社に行けなくて、申し訳ありません。稲見さんとおっしゃる方から、お小遣いをお預かりすることになっていたのですが……本当に申し訳ございません」
春樹の小遣いは毎月第一月曜日に渡される。今月は連休があったため、今日になったのだ。先月までは父の秘書が手配していた。竹下が出勤前に社に立ち寄り、受け取ることが多かった。
竹下の弟は独身だ。関東にいる身内は竹下しかいない。
「ごめんなさい……春樹ちゃんのご飯も……」
「そんな心配しないで。会社には僕が行きます。落ち着くまで、仕事のことは考えないで」
竹下は父の社に雇われている身だ。春樹が受話器を置くまで切ることはしない。春樹は竹下の呼吸音を聞きながら受話器を下ろした。副担任に代わり、担任がそばに来た。
「どうしたんだ。家に何かあったのか」
「家政婦さんのご家族が亡くなりました。僕が携帯電話を忘れたので、出勤できないことを伝えるための電話です。取り次いでいただいて、すみませんでした」
「そうか。力を落とさないよう、励ましてあげなさい。通夜や葬儀には出席するのか? 早退や欠席の必要があるなら、届出が要るが」
教師たちがこちらを見ている。母は春樹の出生と同時に亡くなり、父は一度も学校に顔を出さない。オリエンテーションも入学式も、春樹に同行したのは竹下だ。都内のマンションにひとりで住む一年生に興味があるのだろう。
「明日がお通夜だそうですので、早退はしなくていいと思います」
「届出は当日でいい。考えることもあると思うが、明日もテストがある。早く帰って、テストに備えた生活をしなさい」
春樹は深々と頭を下げて職員室から出た。校舎からも出る。
電話口を通して、竹下の整わない感情が伝わってきた。春樹の視界は揺れてはいない。焦りもない。
葬儀の手配に困れば、社が助けるだろう。春樹は慶弔のマナーを知らないが、訊けば社が教えるだろう。
ずっとそうだった。何もできない春樹を、たくさんの人が世話してくれた。
「僕は……赤ちゃんみたいだ」
桜の木の下でつぶやいた。背後から風が吹き、大きな赤ん坊をぐいと押した。
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