Cufflinks
第一話・焔 第三章・1
右手を高岡につかまれ、右へ右へと引かされる。
高岡が春樹の右手を自らの左手で包むようにつかみ、床に伏せた自分の右手の平を切らせていく。
「や……やめて」
氷水を浴びせられたようだった。体のあちこちに鳥肌が立つ。吐き気はそれ以上だ。二度、三度と、酸っぱいものを飲み下している。
「やめ、やめて……! 怖い……!」
じゃりっと音がした。高岡は土足で部屋に上がった。今も靴を履いている。床の砂を、包丁の背が咬んで引きずる。
高岡の広げた右手が不規則に震える。奥歯を噛みしめているようだし、汗はこめかみを伝っていた。
「高岡さん! だめですこんな、こんなこと」
凶器を操る高岡の腕を、動かないようにつかんだ。衝撃が伝わったのか、高岡の頬が引きつる。
広げた大人の手より大きな血だまりに、高岡の汗が一滴落ちた。
「もうやめて……! 血が、血がこんなに」
春樹の左手につかまれた腕には構わず、高岡は包丁に裂かれる右手を動かした。
自分の肉体の一部を鋭い刃に押し付け、引き切っていく。
生じる迷いを打ち消すためなのか、右手を睨みつけて動かし続ける。
「やめてください! 僕の負けです。高岡さん!」
「簡単に負けたなどと言うな。勝負は終わっていない」
高岡と一緒に引き切ることができれば、春樹が仕事をやめられるよう掛け合ってやると、そう高岡は言った。
春樹が負けたと言ったのだから、勝負は終わったはずだ。
何故、右手を刃物から離さない? 苦痛を欲する?
(こいつ、この男、僕に仕事を……やめさせようとしてる……?)
「人を切る感触が伝わるだろう。よく味わっておけ」
包丁の抵抗が強くなった。骨にでも当たっているような振動が、春樹の全身に響く。
柄から伝わる感覚はすべて、人を傷付けるために不可欠なものだ。
傷付ける側も歯を喰いしばり、冷水に浸かるような悪寒に耐え、胃から逆流するものを抑える。
こんな感覚を避けて通れないならば、傷付けることも罰なのかもしれない。
すっ、と、抵抗が消えた。
高岡が息を吐いた。肩が上下する。血だらけになった右手は、時おり弾かれたように震えた。
「腕を……放せ」
刃物から離れた手の平から、血がぼたぼたと落ちる。
春樹は高岡の左腕から手を引いた。柄を握らされていた手も自由になる。凶器の包丁を振り落とそうとするが、なかなか落ちない。硬直した指を開いて引き剥がす様は、テレビドラマに出てくる殺人犯に似ているのかもしれない。何度も振って、ようやく包丁が落ちた。
「包丁には触れるな。後始末は慣れた業者がする」
片膝をつく高岡が、傷口をハンカチで縛りながら言った。左手と歯できつく結んでいる。頬を赤い血が汚した。
高岡が立ち上がった。電話機に向かって歩く。右手の指先から赤い球が何滴も落ち、床に赤い点が連なった。
「血が……出血が多すぎます。病院に行ったほうが」
「刃物で切ったから血は出るが、よく研いであるな。見事に切れた」
右手をかばいながら高岡がスーツの上を脱いだ。受け取れと言い、こちらに投げる。
「着ろ。着たらタオルを持ってこい」
「はっ、はい!」
全裸にジャケットだけを着て、脱衣所に飛び込んだ。袖を通した高岡のジャケットはあたたかく、強張っていた春樹に日常の動作を復活させた。
リビングに戻り、フェイスタオルを手渡す。高岡はタオルを自分の右手に巻いた。ハンカチの上からしっかり巻き付け、端をキリッと鳴るほどきつく結んだ。
「いいと言うまで声を出すな」
それだけ言うと、高岡は電話機を裏返した。電話機の裏側を上に向けて、電話台に置く。
「何する……」
光る目にひと睨みされ、春樹は口を押さえた。
電話機の裏に何かが付いている。薄い、使い捨てライターの半分程度の大きさの、濃いグレーの箱状のものだ。端から本体の二倍はある、長いアンテナのようなものが出ている。
高岡はそれを外して床に放り、靴で踏んだ。数回踏んで春樹を見る。
「もういいぞ。この電話に誰か触れたか」
誰か……触れた? そうだ。誰かが触った。
笑うとえくぼのできる男が触った。春樹が電話機の取り扱い説明書を探している間に。
「粥川さんっていう、社員さんが……そ、それ……」
床で砕けた濃いグレーの残骸が何なのか、鈍い春樹にも想像がつく。
高岡の返答が春樹の推測を正しいと言うのは、火を見るよりも明らかだった。
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