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第一話・焔 第二章・4
新田は一緒に帰ろうと言わなかった。春樹も待つと言わずに帰宅した。
今までなら考えられないことだ。
ふたりとも怒っているわけではない。悲しんでいるのでもない。
新田の指を離してから、春樹の中からは黒いモヤが消えていた。
元気なく校庭を掃く新田を見て、春樹の胸はつぶれそうになった。
涙を拭ってもらって、心の底から嬉しかった。
高岡にも涙を拭われたことはあるが、嬉しいと思ったことはない。
これが恋でないなら、何というのだろう。
ソファに腰かけて唇をなぞっていた春樹は、花瓶を思い出した。
花はすべて和室に入れてある。今朝はまだ水を替えていない。
ふすまを開けようとリビングを横切ったとき、見慣れない光が視界の端に入った。
電話機と子機の数字ボタンが光っている。昨夜、粥川が今日の午前十時まで鳴らないようにしてくれた。設定を解除しない限り、夜間は鳴らないようにしたのだ。
電話機の液晶画面には『カイシャケイタイ』とある。春樹は慌てて受話器を取った。
「春樹くん、どこ行ってたの。携帯にかけても出ないし、困るよ」
稲見の声だった。春樹は稲見に聞こえないよう、受話器を押さえて溜め息をついた。
「ごめんなさい。忘れ物したから学校に行ってました。携帯、置いてったんです」
いつから春樹の携帯電話に、気軽にかけていいことになったのだ。
自宅につながらないからと、申し訳なさそうに携帯電話にかける粥川を見習え。
そもそも今日までオフだろう。
「困るなあ。携帯は携帯するから携帯電話なんだよ。それはそうと、今日の昼間、数時間だけ空いてない?」
受話器を叩き付けたい衝動を抑える。粥川と同じ職場にいて、どうしてこうまで違う。
これで変わらない給料だったら不公平だ。
「……あの。今日までオフじゃないんですか。勉強したいんです。明日からテストですし」
「時間のことなら心配ないよ。塔崎様と、お昼を食べてほしいだけだから」
言葉が出ない。
受話器の向こうでは「春樹くん?」と言っている。
「困ります! 連休中に頑張ったから週末は丸々オフだって言ったの、稲見さんじゃないですか!」
「痛いとこ突くね。今回の件は、塔崎様からの依頼じゃないんだよ。社からのプレゼントなんだ。塔崎様は明日、誕生日でね。店も贈る品物も、社が用意する。制服じゃなくてもいいよ。正午過ぎに店に入って、長くて二時間程度。もちろん、しっかり送迎するから。何とか頼めないかな」
語気鋭く言い放ったつもりだったが、稲見には勝てなかった。
接待要員を説得するのも仕事なのだろう。しれっとしていて、全く動じない。
人にものを頼むとは思えない稲見の話し方もだが、内容にめまいを覚えた。
「あのっ。粥川さんから聞いてないんですか? 昨日、塔崎様は僕の自宅まで来た……いらっしゃったんですよ。そんな、こっちから会ったりしたら、また変なお考えを抱くかもしれないじゃないですか」
電話のこともぶちまけたいが、確証がないので言えない。
「テーブルマナーもわかりません。箸使いがなってないって高岡さんにも叱られてます。塔崎様をお祝いするには、適任じゃないと思います」
「適任かどうか決めるのは社だよ。和食にはしないから箸使いのことは問題ない。笑顔で食べれば大丈夫。どのナイフを使っていいかわからなかったら、正直に訊けばいいから」
「とにかく困るんです。色々あって勉強、はかどってないんです。オフじゃない日なら、ちゃんと仕事します。今日は休ませてください」
コツコツと電話機を叩くような音が聞こえる。「うーん」という稲見の声が、さも残念そうだ。
「惜しいなあ。塔崎様のようなお方は、上手にあしらえば相当良い思いができるんだけど。あの方のお眼鏡にかないたいという子は、少なくないんだけどなあ」
春樹の肩がぴくりとした。こめかみも、受話器を持つ手もぴくぴくする。
「でも、仕方ないよね、自信がないなら。他の子をあたるよ」
自信がない?
春樹の腹の底で、熱い炎が燃え立つ。
これは焔ではない。経験がある。
高岡に縛られてベルトで打たれた日。土下座させられて奴隷のような挨拶を強要されたときに、燃えた火だ。
自分に向けた、怒りの炎だ。
あのときは理由もなく高岡に甘えようとした自分に、自分で怒った。
今は────自信がないと言われた自分を、許せないでいる。
「じゃ、残念だけどゆっくり休んで……」
「お引き受けします」
「え?」
春樹は受話器を握り直し、言葉を続けた。
「塔崎様のお祝い、務めさせていただきます。ただひとつ、わがままを聞いてください」
「いいよいいよ。なんなりと」
「お店も贈り物も、僕に決めさせてもらえないでしょうか」
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