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第一話・焔 第二章・4


 翌朝は暖かかった。
 七時になるころには気温が二十度を超えると予報されていたが、そのとおりになったようだ。
 春樹は学校に来ていた。
 校内に入るつもりはない。通用門で教師に見せる生徒手帳も、今朝は持ってきていない。
 桜の木の下に、人影がひとつある。
 日曜の朝でも、昨日、春樹に突き飛ばされても、新田は変わらずに掃除をしていた。
 春樹は斜め格子状のフェンスに指をかけた。側溝のコンクリート蓋に足を乗せる。
 胸が痛い。
 万力(まんりき)か何かで、締め付けられているみたいだ。
 新田の表情は、離れていても手に取るようにわかる。
 後悔を隠せない眉、曇った瞳、寂しそうな唇。
 慣れた作業のためか、昨日のことを忘れたいのか、竹ボウキで掃くスピードはいつもより速い。

 『好きな人に、完全に情が移るまではね』

 昨日、壬がそう言った。壬はかつて、春樹と同じように男に体を売っていた。
 客とのことを思い出して好きな人とセックスできないことがあったと、壬は言ったのだ。
 壬の気性は激しい。高岡に手を入れられて激昂し、あの狂犬に殴りかかったことがある。
 そんな強気な一面がある男でも、好きな人に完全に情が移るまではできない、と言う。
(修一に、完全に情が移っていないっていうこと……?)
 フェンスをつかむ指に力が入った。かすかな金属音がした。
 風は吹いていない。こんな小さな音が新田に届くはずがない。
 ないが、新田は振り向いた。竹ボウキが手から落ちる。
「春樹……!!」
 新田が走ってくる。春樹は反射的に、通用門とは反対方向に駆け出した。
 学校の周囲にある舗道には、わずかだが傾斜がある。春樹がフェンスをつかんでいたところは舗道より校庭が上に位置していたが、通用門から離れるにつれて舗道と校庭が同じ高さになっていく。
 あと一歩で横断歩道という地点で、新田の声につかまった。
「春樹! 行かないでくれ!」
 立ちどまると同時に視界が揺れた。熱い液体が頬を伝う。
「行かないでくれ……頼む」
 春樹は校庭と同じ高さになった舗道の、側溝の蓋に乗った。
 新田がつかんでいるフェンスを、新田の指ごとつかむ。
 フェンス越しに、唇だけのキスをした。
 春樹につかまれていないほうの指で、新田が春樹の涙を拭った。
「僕の気配が、わかったの……? 修一は、エスパーなの?」
 しゃくり上げる春樹の前で、新田が少しだけ笑った。
 初めて目にする顔だった。春樹に近いところまで下りてきてくれたような、そんな表情だった。
「エスパーじゃないけど、わかった」
「好き……だから……?」
 新田がうなずく。春樹は両手の指を新田と絡ませた。
「修一のものにしてって、昨日、言うつもりだった」
 春樹は一度きつく目をとじ、涙を振り落とした。
「いつか……言えるかな」
「聞かせてもらえるまで待つ。もう二度と、怖がらせるようなことはしない」
 新田の目を見つめる。
 唇を重ねなくても、指先に力を入れなくても、キスをしたような感覚に陥った。
 校庭の木から、鳥が鳴いて飛び立った。
 ふたりで見上げた空は高く、遠くまで澄んでいた。


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