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第一話・焔 第二章・4


「高岡さん……?」
 粥川が水をとめ、こちらに横顔を向ける。えくぼは消えていた。
「はい、あの、高岡……彰さん。躾けられてるんです。ああしろこうしろ、早くしろって、せっかちでおかしな人です」
 粥川は同僚である稲見から、高岡の名を聞いていないのだろうか。
 高岡、と口にしたことで、春樹の顔はまた理由なく火照った。残った茶を飲み干し、新聞で顔を隠す。
 おかしな人と言ってしまって冷や汗が出たが、粥川は告げ口などしないだろう。
「高岡彰……織田沼彰か」
 皿を洗い終えて手を拭く粥川が言った。
 呼び捨てにしたのは意外だったが、高岡は常識に欠けた狂犬だ。あちこちで悪評を買っているのかもしれない。
 狂犬の評判などより、織田沼という姓に引っかかった。
 織田沼とは、高岡の父の姓である。高岡の異母妹である笙子も、織田沼の姓を使っていた。
 狂犬の親がどんな人物なのか知りたくなった。
 春樹は新聞を置き、粥川に訊いた。
「粥川さん、織田沼って名字、知ってるんですか? 有名な人なの?」
「代議士ですよ。族議員です」
「代議士……」
 社会科の総合資料に、代議士とは一般的には衆議院議員のことだと、書いてあった気がする。
 高岡の父親は政治家なのか。
 政治家の息子がSMクラブ経営者。T大を中退した、不出来な息子ということだろうか。
「丹羽さん。このマンションは、二十四時間管理ではないんですね」
「はい……えっ?」
 粥川はスーツの上を着ていた。春樹に隠れるように腕時計を見ている。
 高岡の父の素性を聞いて思考がとまっていた春樹は、粥川を見送るために立ち上がった。
 靴べらを渡すと、粥川が真顔で訊いてきた。
「管理人室に、誰もいないようでしたが」
「通いの管理人さんなんです。いてくれるのは、平日の朝から夕方までです」
「そうですか……オートロックでもないようですし、郵便受けも任意に施錠するタイプですね。新聞も各戸に届けられるようだ。監視カメラは? エレベーター内にはあったようですが」
「前は駐車場とエントランスにもあったんですけど、おかしなことも起きないし、密閉されるエレベーターだけでいいんじゃないかって。マンションの理事会の人たちが決めたみたいです」
 春樹が住むマンションは古い。春樹が生まれた年に建てられたものだ。
 都内ではあるが、この辺りは昔からの戸建て住宅や商店に住む人が多い。
 特に警戒しなくても近隣の目が互いを監視し、見守っている。
 放火や空き巣の被害も少ないことから、最新のセキュリティを求める声は出ないのだ。
「粥川さん、ありがとうございました。お仕事中にごめんなさい」
 エントランスまで送ると言った春樹に、粥川が首を横に振る。
「必要ありません。何かあれば電話してください。おやすみなさい」
 粥川がエレベーターに乗るのを見届けてから、春樹はしっかりと戸締りした。
 まさか来てくれるとは思わなかった。
 電話が鳴らないように設定し、夕食の温めと配膳、洗い物までしてくれた。
 このマンションの安全性も気にしてくれている様子だ。
「あんな社員さん、いるんだ……」
 粥川が洗った食器類を拭き、棚にしまった。
 歯を磨いてベッドに入るころには、塔崎のべとついた気配も忘れていた。


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