Cufflinks
第一話・焔 第二章・4
自宅電話機の取り扱い説明書は、テレビボード兼コーナーボードの奥にあった。
春樹も竹下も、家電の扱いに弱い。説明書を見る前に電器屋に来てもらうのが常だ。
この電話機も、留守番電話の操作方法と音量調節、相手の電話番号を登録して表示させる方法などを教えてもらい、メモに書いてもらっていた。その他の設定方法になると、お手上げの状態だった。
春樹は粥川に説明書を手渡し、ダイニングテーブルに茶を置いた。
「ごめんなさい、お仕事中なのに……お茶、飲んでください」
「気になさらないでください。何時頃まで鳴らないようにしましょう。十時頃にしますか?」
「あ、はい。お願いします」
粥川は説明書をすぐに閉じた。春樹が説明書を探している間に、あらかた設定してしまったらしい。
春樹の部屋に入ってすぐ、粥川は、自宅電話が今も鳴るかどうか尋ねた。
もう鳴らないと春樹が答えると、電話機を見て
「夜の間は着信しても音が出ないように設定できそうですが、どうしますか」と言った。
「何か目的があって電話していたのなら、今もかかってくる可能性が大きいでしょう。こんなことを言うと社にどやしつけられますが、塔崎様は寝込みを襲ったりはしない。乱暴なことはできない方です。電話にしても、何時間もかけることはなかったと聞いています。このままにしておいても電話は鳴らないと思いますが、不安な要素は少ないほうがいい。翌日の午前中まで鳴らないようにしますので、眠って体を休めてください」
と、言ってくれたのだ。
塔崎の肩ばかり持つことなく、かといって悪口に終始するわけではない。意味もなく大丈夫だとも言わない。
現実的で落ち着いた粥川の言動は、春樹を安心させた。
「終わりました。設定を解除する方法は、このページに書いてあります」
分厚い説明書が返された。図解入りで必要なことは大きく簡潔に書かれている。これなら何とかなりそうな気がした。
春樹は開いていたページの端を折り、粥川を見上げた。
「ご自分で解除できそうですか?」
「たぶん……じゃなくて、何とかやってみます。僕も男ですし」
「その意気です」
粥川は屈託なく笑い、春樹が置いた茶を飲んだ。頭に手をやり、「あ」と言う。
「や、うっかりしました。ごちそうさまです」
礼儀正しくて行動力のある粥川は、笑うと頬にえくぼができた。ごく自然な動作で湯呑みをシンクに運ぶ。
「粥川さん。そのままでいいです」
仕事中に来てもらった上に、片付けまでさせられない。
春樹が急いで粥川に並ぶと、粥川はコンロの上の鍋に触れた。
えくぼを作った顔のまま、春樹をちらりと見る。
「丹羽さん。夕食は食べられましたか?」
「えっ……ええ」
「本当に? 鍋が冷たいようですが。違うものを食べたのですか?」
春樹は下を向いた。昼食も夕食も食べていない。
「そこに座ってください。どうもあなたは食が細いようだ。食べないと体がもちませんよ」
言われるまま、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
人がいるときにパジャマ姿で食卓につくなど、いつ以来だろう。気恥ずかしいが、楽しい感じもする。
病後の粥やうどんを食べるとき、パジャマの上に綿入りのはんてんを着て、こうして座った。
心配して勤務時間外に来てくれた竹下と、一緒に食べたものだった。
春樹の目の前に、アカウオの煮付けと白米、その他惣菜が数種類並んだ。どれも湯気をたてている。
竹下との優しい時間を思い出している間に、粥川が用意してくれたのだ。
「ご、ごめんなさい。こんなことまでさせて」
「食べてください。食べ終わるまで、僕はここにいます」
向かい側に粥川が座った。見ていては食べづらいと思うのだろう、新聞を読み始める。
春樹は胸の前で手を合わせ、箸を手にした。
食欲などないが、駆け付けてくれた粥川にこれ以上迷惑をかけたくない。その一心で最初のひと口を食べた。
ひと口食べたら、腹の虫が鳴った。
このところ不規則になりがちだった食事を、胃が、舌が、全身が欲しがった。
箸は休むことなく、春樹はあっという間にたいらげた。
「見かけによらないですね」
えくぼの粥川が言った。食後の茶を飲む春樹が軽くむせる。
春樹が食器を運ぼうとすると、粥川が制した。
「素手の水仕事は控えたほうがいい。手が荒れます」
粥川は慣れた所作で皿を洗った。独身なのかもしれない。
「高岡さんみたい」
ぼそっと出た春樹の言葉に、粥川の背中が動いた。
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