Cufflinks
第一話・焔 第二章・4
「だれ……?」
電話機の液晶画面には『コウシュウ』と表示されている。公衆電話のことだ。
車の音だけがして電話が切れた。
新田だったら、息をのむ音がするほうが自然だ。
不安を隠さない春樹の声を聞いて、怯えさせるようなことはしない。絶対に。
春樹は寝室に入り、内側から鍵をかけた。ここで電話が鳴らなくなるまで待つしかない。
学習机の上が振動した。
充電用ホルダーに置いた携帯電話が光っている。リビングの電話も、少しの間をおいて鳴った。
携帯電話の画面をスクロールするのは『会社携帯』だった。
通話ボタンを押した。汗で指が滑る。
「丹羽春樹さんの携帯電話ですか? 粥川です」
「か、粥川さん! 電話が、電話が」
「丹羽さんですか? 落ち着いてください。どうしました?」
「家の電話が、おかしいんです。無言電話がかかってきて……どうしよう、怖い……!」
「落ち着いて。その電話、今はどうですか?」
春樹はリビングに意識を向けた。
留守番電話がメッセージの録音を終了する音声が流れ、自動的に電話が切れる。
数秒後、またしても電話が鳴った。心臓を突き刺すような音だった。
「またかかってきた。もう嫌……! ホテルかどこかに行きたい。助けて!」
春樹は頭から毛布を被り、窓と扉を見ながら叫んだ。
「外に出ないほうがいい。あなたが休まれているか、気になってご自宅に電話しました。つながらないので失礼とは思いながら、携帯電話にかけたのです。一時間でそちらに着きます。怖いでしょうが、もう少しだけ我慢してください」
「き、来てくれるんですか? あの、仕事は」
今日は土曜だ。粥川も接待要員の送迎をするなら、週末の夜は忙しいはずだ。
「つい今し方、契約社員がホテルの部屋に入ったところです。数時間は空きます。あなたはご自分の安全だけを考えるように。いいですね」
「は、はい」
春樹はそっと毛布から出た。携帯電話を胸に当て、ベッドの端から足を下ろす。
リビングの電話は鳴り続けていたが、恐怖感は薄らいだ。
粥川は春樹だけではなく、他の接待係のことも契約社員と呼ぶようだ。
本当の契約社員が聞いたら怒るのかもしれない。高岡あたりだと一笑に付すだろう。
狂犬を基準に考えてはいけない。街中で人の髪を引っ張り、レストランで犬呼ばわりする男だ。
春樹は携帯電話を持ったまま、寝室の扉を開けた。リビングの電話は鳴ったり静かになったりを繰り返している。
もう一度家じゅうの施錠を見直し、トイレに入った。鍵をかけて便座に腰かける。
トイレのルーバー窓は、マンションの廊下に面していない。外壁側に取り付けられている。
侵入するには難しい位置にあるし、万が一窓をすべて割ったと仮定しても、大人なら肘より上は入らないだろう。
携帯電話の電波もよく通る。篭城するには最適の空間だ。
「しっかりしなきゃ。粥川さんも、仕事中に来てくれるんだから」
リビングの電話が鳴る間隔も、徐々に長くなった。
一時間後、玄関の呼び鈴が鳴った。
インターフォンから聞こえた声は、粥川のものだった。
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