Cufflinks
第一話・焔 第二章・4
「死のうとした? あれでか。笑わせるな」
高岡はあっさり春樹から離れた。自分が蹴った包丁を拾い上げ、柄を春樹に向けて差し出す。
「見ていてやるから死んでみろ」
春樹は硬直した。涙もとまり、荒い呼吸音だけがする。
「どうした。きっぱり言い切ったんだ。死んでみろ。とめやしない」
「い……いや」
右手を高岡にとられた。包丁の柄が指先に触れて手を引くが、強引に柄を握らされた。
高岡の双眸が、本物の動物のようになった。
切れ長の目が眉と一緒に上がり、眉間と鼻の付け根に深いしわができる。
言い訳も謝罪も通用しない、闘う者の瞳だった。
「生きる道があるのに利用しないとはな。要らないなら誰かに譲れ。言い残すことがあるなら聞いてやる」
包丁を握らされている手に力が加わる。刃物の先が喉に触れた。
「遺言は無しか。ではさっさと死んだらどうだ。さあ死ね! 死んでみせろ!!」
高岡の手を押し返すように指を開いた。
がくがく震える手の平の間に、少しだけ隙間ができる。汗で滑った包丁が落下した。
春樹の胸に落ちた包丁を、高岡が取り上げた。ダイニングテーブルの下に投げる。
テーブルの脚に当たった鋭利な刃物は、方向を変えて回りながら滑っていった。
春樹は高岡の腕や胸を、滅茶苦茶に殴った。腹も蹴ろうとしたが余裕でよけられた。
半身になった高岡から逃れる。高速で這って、ダイニングテーブルの脚をつかんで叫んだ。
「僕がばかだった! あんたなんかに、お前なんかに体を許しちゃいけなかったんだ! あんた言ったじゃないか、嫌になったらやめれるって。もうやめる! あんたにも客にも抱かれない!! もう嫌だこんなこと!! いやだああアア────ッッ!!」
声が割れるほどの絶叫だった。涙と唾液が気管に入る。床に手をつき、泣きながら激しく咳き込んだ。
手の上が薄暗くなった。高岡が春樹を見下ろしている。
「叫んでも死ねないぞ」
高岡の声に嘲笑が混じった。
「死ぬのが怖くなったから、仕事をやめるか。それもいい。貯えもなしで世間の荒波に揉まれても、若いうちならにっこり笑って男と枕を並べれば、小遣いには困らないだろう」
吸い込む息に甲高い音が混じった。高岡を仰ぎ見る。あごの先から涙のしずくが落ちた。
「僕がまた……体を売ると……? 自分から……?」
「しないと言い切れるか」
声帯が活動を停止した。そんなことするものか、が、どうしても出てこない。
「心配するな。少しは縁のある仲だ。街で見かけたら相場より高く買ってやる」
手と腕に力をこめた。イヌが駆けるように、床を掻いてダイニングテーブルを回り込む。
廊下の手前にある包丁をひっつかんだ。
片手で柄を持ち、刃を高岡に向けた。
「こっ……ころ、殺してやる!!」
包丁を横に振った。切っ先が高岡の腿のすぐそばをかすめる。
闇雲に振り回すだけの手が、包丁の柄ごとつかまれた。
恐ろしく強い力で床に押さえ付けられる。柄を握る手と高岡の膝が床につく。
春樹と向かい合わせになった高岡が、自分の右手を開いて刃に乗せた。
金属の刃が人の肌に当たる、恐ろしい感触がした。
「たかお……高岡さ」
柄をさらに強く握らされる。包丁の刃が、背を床につける状態で浮いた。
春樹の非力な手が高岡に操られた。刃が当たる角度を調整している。
包丁に抵抗が伝わった。高岡の手の平に、刃が入ったのだ。
「死に損なって何を得た? 何もなさそうだな、可哀相に。せっかくだからゲームをしよう」
柄を握る手がわずかに横へ引かれる。
皮膚を裂き、肉に入った刃物を高岡が動かしている。春樹にも凶器を持たせ、切らせようとしている。
「この包丁を俺と一緒に引き切ることができれば、仕事をやめられるよう掛け合ってやる。これでも多少は社を潤わせてきた。要求は必ずのませる。約束する」
さらに右に引かれる。血が床を汚し始める。
また引かれた。春樹の背筋に悪寒が走る。胃からこみ上げるものもあった。
「俺の成功報酬も、そっくりお前の支度金として回してやる。贅沢しなければ、半年は生活できる」
すでに包丁は深く喰い込んでいる。高岡の血が刃を伝い、床を少しずつ赤くしていく。
このまま抵抗せず高岡に引かせれば、自由が手に入る。貧しくても正しい生き方が待っている。
高岡が自分で選んだ苦痛だ。今まで散散苦しい思いをさせられた。報復する、またとない機会だ。
じりっ、と、包丁が右へと引かれる。高岡のひたいには汗が滲んでいた。
「誰にもお前を叱らせない。やってみろ」
春樹の決心を待たず、包丁はじりじりと右方向に移動を始めた。
< 第三章・1へ続く >
【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました!
続きは第3章・1のupまでお待ち下さい。
数回に分けてupすると1回の更新作業量が少なくなり、ついつい
遊んだり睡魔に負けたりして、思ったよりはかどらないと知りました(笑)
今後のup方法はどうするか未定ですが、全20回で終了予定です。長いな〜。
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