Cufflinks

第一話・焔 第二章・4


 背中が痛い。何かが当たっている。
 春樹は重いまぶたをこじ開けた。人間の、肌のようなものが見える。
 自分の脚だった。脚が床に投げ出されている。身じろぎした。手の平が脚の上に落ちた。
「なに……これ、これは」
 春樹は全裸だった。この部屋は見たことがある。自宅マンションの……リビングだ。
 どういうわけか、真っ裸でダイニングテーブルの脚にもたれている。
 立とうとして違和感に気付いた。尻に、穴の中に何かが入っている。
 抜くときに軽い痛みがあった。静かに引き抜いたものは、コンドームの中に丸めた紙幣が詰め込まれたものだった。
 表面に少量の血がついている。中の紙幣は、十万円はあると思う。二十万円くらいあるのかもしれない。
「二十、万……塔崎……机……!」
 腰から下に力が入らない。転びながら寝室に向かった。
 寝室の扉は開いていた。学習机の引き出しがすべて開けられている。鍵付きの引き出しも例外ではなかった。鍵が壊されたのだろう、こじ開けたような跡がある。
 塔崎からの二十万円が入った封筒は、中を触った形跡がない。貯めてあった小遣いも無事だった。
 コンドームに入っていたものは、誰かが用意したものということになる。高岡から渡されたコンドームの綴りが破られ、ローションはなくなっていた。これらを使って春樹の尻に金を入れ、放置したのだろう。でも、何故?
 春樹は数回まばたきした。
 キキョウのハンドタオルがない。新田からもらった、大切なものがなくなっている。
「う……うそ……修一」
 鍵付きの引き出しを学習机から引き抜いた。引き出しを逆さにし、何度も何度も確認した。
 四つ這いで寝室の床を這い、ベッドの下から家具の裏まで、繰り返し見た。
「いや……返して……返してよ……!」
 返して! と言いながら、自宅の中を這いずり回った。
 声は徐徐に大きくなり、叫びながら探した。キキョウのハンドタオルを探した。
 現金の入ったコンドームを入れられた他にも、何かされたような気がする。
 体が痛い。顔も痛い。口の中も、喉もおかしい。自分以外の体臭がする。
 夢だ。これは悪い夢だ。
 今が何日で朝なのか夜なのかもわからないが、夢に決まっている。
 あのタオルがあれば夢から覚める。キキョウの刺繍にキスすれば大丈夫だ。
 ハンドタオルは玄関にあった。
「修一…………!!」
 紫色のキキョウが彩る四角い布は、切り裂かれていた。
 鍵付きの引き出しに入れたりしたから、大切なものだと見抜かれたのだろう。
 すだれ状に裂かれ、踏みにじられていた。土汚れがついている。土足で踏まれたのだ。
 春樹はタオルを拾った。ボロボロの布は、無言で春樹を責めた。お前の不注意でこうなったのだと。

  変わらぬ愛。キキョウの花言葉。

 赤ん坊が泣くときのような、変な声が出た。裂かれたキキョウを握りしめる。
 ない。どこにもない。変わらないものなど、この世にはない。
「ごめんね……修一……」
 廊下を這い、キッチンに入る。
 シンクの下の開き戸に手をかけた。手前に引き、目的のものを取り出す。
 包丁を持った春樹は、正座して刃を自分の喉に向けた。
「しゅ……いち」
 断片的に思い出した。
 注射器で薬を打たれた。イヌのような姿で後ろから貫かれ、別の男に口で奉仕した。
 溶鉱炉があった。落とされた。泣き叫んで気を失う寸前、見覚えのある物体を見た。
 小さなレンズだった。自分の携帯電話のカメラで、抱かれた直後の顔を撮られた。
 携帯電話は探さなかった。この部屋にあったとして、何だというのだ。
 あんなもの、いくらでもコピーできる。もうインターネット上に公開されているかもしれない。
 男に抱かれて「死ぬ」と叫ぶ春樹を、あらゆる人が見る。新田にも知られるだろう。
 変わらぬ愛などない。修正不可能になった。もう元には戻せない。
 切っ先が喉の真ん中に触れた。柄を握り直す。
「ごめんなさい、修一……! ごめんなさい……!」
 唐突に玄関ドアが開いた。
 上背がある眼光のきつい男と目が合った。春樹は意識せず、男の名を呼んでいた。
「高岡、さん」
 春樹が高岡と呼んだ男は、土足で廊下に上がった。靴音を響かせてリビングに入る。
 怒りを剥き出しにして襲いかかってきた。
 手首を捻り上げられて包丁が落ちる。凶器を蹴り飛ばした高岡は、春樹の頬を往復で叩いた。
「何をしていた」
 春樹は大声で意味のないことをわめき、高岡が蹴った包丁に向かって這おうとした。
 死ななければ。醜態ばかりさらす春樹は、皆のお荷物でしかない。
 数歩も進まないうちにつかまった。一発、さらにもう一発、平手打ちをくらう。
 なおも包丁に手を伸ばす春樹の体が浮いた。胴を抱えられ、床を滑るように投げ飛ばされた。
「死なせてよおッ!! もう終わりだ、何もかもバレる! あんなの見られたら!! あんなのっ……あんなの……!」
 また包丁を目指して這う。再度つかまった。床の上に転がされる。
 高岡が春樹の腹に膝を打ち込んできた。吐き気をともなう痛みに、濁った悲鳴が出た。
 春樹にまたがる高岡が、低い声で言った。
「何をしていたか答えるまで、このままだ」
「し、しな、死なせ」
 鈍い音をたてて頬が張られる。唾液と血の混じったものが、頬にへばり付いた。
「何をしていたのかと訊いている」
 腹の上には高岡の膝がある。起きようとすると胃が押され、吐きそうになった。
「言え。何をしていた」
「……見ればわかる、だろ。死のうとしたんだ、よ……!」
 勢いをつけて上体を起こそうとした。前頭部をつかまれる。
 もう一度頬を叩かれ、春樹は床の上で静かになった。胸が激しく上下に動く。涙が鼻梁を伝った。


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