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第一話・焔 第二章・4


「しょっぱかったろ、わんちゃん。口直しだ。犬として飲んでみな」
 勇次が、犬として、を強調して言った。
 粥川が春樹の顔の下に置いたものは、水の入った陶器の器だった。
 本物のイヌが使う容器だ。
 春樹はゆっくりと肘を曲げた。容器に顔を近づける。
 水に映る春樹の顔には、憤怒の色があった。目を閉じる。
(怒るな。こいつらの望みに集中しろ)
 理由はわからない。わかるのは、罠にかかり、正常ではない男たちに提供されたということだけだ。
 少しでも楽になることだけを考えろ。感情は、今は捨てるべきだ。
 舌が水面をとらえた。ただ舐めるだけでは水が口に入らない。舌を巻くようにして飲んだ。
 水を派手に散らさないように、しかし、音はしっかりたてるようにした。
 唇をすぼめて水をすすれば楽なのだろうが、動物のイヌはそうは飲まない。
 ぴちゃぴちゃと飲むからイヌなのだ。
 春樹は犬として水を飲んだ。心の中が平らになっていく。
「可愛い顔して気が強い。織田沼のガキとそっくりだな」
 ぴちゃ、と、春樹の舌がとまった。
 勇次が織田沼のガキと言った人物は、高岡に違いない。三十四歳の高岡をガキと呼ぶこいつらは、何歳なのだろう。
 三浦は四十歳前後に見える。勇次は高岡と変わらないか、年下のように思うのだが。
「どうした、わんちゃん。うちの水はまずいか?」
 勇次の手が春樹の頭に置かれた。春樹は無愛想にならない程度に、静かに答える。
「おいしいです」
「いい子だ。もっと飲みな。可愛いべろを見せてくれよ」
 水を巻き上げる舌を、勇次の太い指がつまんだ。
 驚いた春樹が舌を引っ込めようとすると、尻を撫でられた。両手を使って頬や髪、胸、唇も触られる。
 春樹は犬を飼ったことはないが、飼い主が犬に水や餌を与える際、こうして頭や体を撫でる姿は想像できる。
 この男は、水を飲む愛玩犬を可愛がっているのだ。
 春樹は勇次の愛撫にさらされながら、水を飲む行為を続行した。
 舌に触れる指に邪魔されるためか、隠しきれない怒りのためか、空気まで一緒に飲んでしまった。
 げっぷが出て血の気がひいたが、勇次は大きな笑い声をあげた。
「可愛い犬だ。楽しく遊べそうだな。なあ兄貴」
「気に食わん目つきだ。躾もなっていない」
 カウンターの中では粥川が立ち働いている。三浦が飲んでいる水割りらしきものも、粥川が用意したのであろう。
「おれは気に入った。なつくと可愛くなりそうだ」
 春樹の頭をひとしきり撫で、勇次が立ち上がった。腕をつかまれて春樹も立たされる。
「粥ちゃん。わんちゃん洗ってやって。おっとその前に」
 勇次の顔が目前に迫った。目を開けたままの春樹の唇に、アルコール臭い口が被さった。
 唇をもぎ取ってしまうような、乱暴で利己的なキスだった。
「うう! う、うううっ」
 勇次の口が離れた。気持ちが悪い。勇次は鞭が好きな兄とは違う。
 いくら水を飲んだからとはいえ、春樹は勇次の尿を口にしたのだ。もしも春樹が勇次なら、自分のものでも尿を飲んだ口になど触れたくない。キスなどもってのほかだ。

  変態。

 今まで何度となく高岡に対して抱いてきた言葉だが、勇次にこそ似合う。
 春樹を見て笑う勇次の顔は、醜くはない。日焼けした肌が健康的だ。二重まぶたの目が大きい。眼鏡はかけていない。女性に好かれそうな顔にも見える。でも、心がおかしい。兄の勇一と同等か、もしかしたら兄以上に。
「柔らかい唇だな。うまそうだ。早く食いてえ」
 勇次が水の入った容器を持ち上げた。イヌが使う容器を笑顔で掲げる。乾杯でもしているようだ。
 春樹を見て目を細め、飲みかけの水をあおる。
 大きな喉仏が上下する様子は、春樹をぞっとさせた。
「こちらへ」
 粥川の声がした。バーカウンター脇の戸口に立っている。
 春樹は床から靴底を引き剥がすようにして、足を踏み出した。


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