Cufflinks

第一話・焔 第二章・4


 都会的な眼鏡が光った。鞭が高い位置に上がる。
 頭を覆って体を丸めた春樹に、続け様に熱い痛みが走った。乱打だった。
 風切り音も打撃音も悲鳴もなくなったころには、春樹は階段にすがるように伏していた。
 ひたいと体には汗が、頬には涙が伝った。
「奴隷が問い返すとは世も末だ」
 頭の芯に火がついた。顔が紅潮するのがわかる。
 理性が反抗するなと言ったが、くらくらする頭では抑えようがなかった。
「僕は……奴隷じゃない」
 鞭を愛する爬虫類男が春樹を見た。無言で春樹の左手をとる。
 階段の縁に春樹の指が当たるように、広げて置かれた。
 この部屋では靴を脱がない。三浦の土足が春樹の指を踏んだ。
「い……! 痛いッ!」
 冷たい手にあごをとられた。あれだけ鞭を振るっても、この男の手は少しも温度が変わらない。
「織田沼の息子が何と言っているか知らんが、俺の前ではお前は奴隷だ。下等な犬だ。許しを請えば足をどけてやる。我を張るなら指を折る」
「ど、どれ……奴隷じゃ、ない……!」
 三浦が眼鏡を動かした。しげしげとこちらを見る。
「呆れたな。こんなバカ犬は見たことがない」
 あごからは手が、指からは靴が離れる。強く踏んで手の指を折る気だ。
 春樹が目をつぶったとき、バーカウンター付近から賑やかな声がした。
 陽気な歌声と靴音。リズムをとるためなのか、腿を手で叩くような音もした。
 薄目を開けた春樹と目が合い、歌っていた男がにっこり笑う。
「やめとけよ兄貴。織田沼んとこのガキは父親の気に入りだ。面倒は避けようぜ」
「この犬はあれのものではないだろう」
「躾が終わるまでうるさく干渉するのが織田沼のガキだ。でかいケガさせる必要はないだろ」
 瓶ビール片手に話す男────三浦勇次は、がっしりしていた。背は高くない。舌を出してビール瓶を逆さにする。
 最後の一滴まで楽しもうという表情は、明るいものだった。鼻唄を歌い、腰を振って背面から瓶を投げる。
 カウンターに向かって投げられた瓶を片手でキャッチしたのは、粥川だった。そのままカウンターの内側に入り、瓶を捨てて手を洗う。春樹を見ても顔色ひとつ変えない。
「粥川さん……どうして……」
 不必要な疑問を制裁すべく、鞭を持つ三浦の手が上へと動いた。勇次が三浦の手首をつかむ。
「やめとけって。たまには変わった毛色の犬とじゃれるのも悪くない。さて、わんちゃん」
 三浦に代わって春樹の前に立った勇次が、自分のジーパンのジッパーを下ろした。
 分厚い手が春樹の頭をつかむ。首がねじ切られるのではと思うほどの力で上に引かれ、膝立ちにさせられた。
 男なら見慣れているものを出し、その先端部を春樹の顔に突き付けてきた。
「うちではわんちゃん用のウエルカムドリンクは、これと決めてるんだ」
 何を要求されているのか、ようやく理解した。
 春樹の口に直接放尿するので、飲めと言っているのだ。到底従うことなどできない。
 自分から口を開けられない春樹を見て、勇次が間延びした声を出した。
「粥ちゃーん。手伝ってよー」
 規則的な足音が近づいてきた。粥川が春樹の背後に立つ。
 頭を持たれ、頬をつかまれた。否応なしに口が開く。
「欠陥便器は兄貴が嫌う。この部屋は兄貴の名義なんだよ、わんちゃん。粗相したら……鞭打ちされちゃうぞ」
 口の中に異物が入り、勢いのある液体が放たれた。
 尿など飲んだことはない。不要かつ不潔と判断した脳が、飲むなと命令した。
 しかし頭部を固定する粥川の力は強く、舌の根が尿をせきとめるのにも限界があった。
 飲めない液体は鼻へ流れてしまう。唇の端からも漏れる。
 今はまだ頬と首を伝って春樹の体を汚すだけだが、いずれ床にこぼれる。三浦の鞭が待っている。
 春樹は力を抜いた。飲むなと命じる脳に勝つのは難しかった。喉も胃も、嫌だと叫んでいる。
 背中と腰の傷だけが、頼むから飲んでくれと懇願していた。
 口中に溜まった尿を飲み下す。身震いした。無条件で吐き出したくなる。
 苦みと塩辛さ、わずかな甘みが混じる液体は、徐徐に勢いを増した。口の奥、喉の壁に当たる。
 こちらが嚥下(えんげ)するタイミングなど考えていない。胃が痙攣しそうだった。
「なかなか上手に飲むな。小便飲んだことあるのか?」
 勇次が訊いた。ジッパーを上げる音がする。
「……あり、ません」
 ビールを飲んだ勇次の尿は、量が多かった。飲む立場だからそう思うのかもしれない。
 経験したことのない吐き気に耐えながら、春樹は袖で顔をこすった。
 粥川は音もなく春樹から離れた。バーカウンターへ戻っていく。
 カウンターのスツールには三浦が腰かけている。手を洗った粥川が、三浦の細長い煙草に火をつけた。
 粥川が再びこちらに来た。手に何かを持っている。


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