Cufflinks
第一話・焔 第二章・4
壬の店に着いたのは、夜の七時半を回ったころだった。
店の入り口で客を見送った壬が、春樹に気付いて笑顔になる。
「どうしたの。そんなに急いで」
つまづきながら店内に入った春樹に、壬が声をかけた。レジカウンターに入って眼鏡をかける。
昨日試着した服が、カウンターに広げられた。
「お茶飲む? 時間あるようなら、ご飯でもどう?」
「ご、ごめんなさい。時間、ないんです」
「そう、残念。ポケットの位置、一応言っとくね」
ジャケットとパンツの隠しポケットを、壬の小さい手が指していく。春樹は生返事をして説明を聞いた。
「誰かと約束でもしてるの?」
何度も窓の外に目をやる春樹に、壬が笑いながら言った。
店名が入った袋の持ち手が春樹の指先に当たる。いつ服を袋に入れてくれたのだろう。
「昨日言ってた、すごく好きな人?」
「いえっ、違います。あ、あの、壬さんの服、お客様から褒められました。ほんとに、ありがとうございます」
「よかった。本当はデートで着て褒めてもらえるのが、いいんだろうけどね」
壬が袋を持った。柔和な笑みを浮かべてカウンターの外に出る。
春樹はまた窓を見やった。
指に触れたのは袋の持ち手ではなく、壬の手だった。
眼鏡をかけ直した壬が、春樹の手首と肘の下を両手で持つ。袋はカウンターの上に放り出された。
「これ、血じゃないの?」
春樹は自分の左腕を見た。服地に、うっすらと赤い箇所がある。
粥川を立たせたときについたのだろう。粥川の手には、確か、血がついていた。
「これは、はなっ、鼻血が」
壬につかまれた腕を引く。ほとんど動かない。
女性的な手をしているはずなのに、壬の力は強かった。眼鏡の奥の目が険しくなる。
「なめたこと言ってくれるよね」
「みずのえさ……」
「いただけない場面、多少は見てきたつもりだよ。自慢できないけど」
壬の日本人形に似た目が、ぎらぎらしていた。高岡の眼光とは違う。
底がわからない瞳の、ずっと奥から湧き出るような光だった。
春樹は右手で服が入った袋をひったくった。壬の手が一瞬ゆるむ。渾身の力で壬を振り払った。
「ごめんなさい! 時間がないんです。ごめんなさい!」
脱兎のごとく店から飛び出す。一度閉まった店の扉が、大きな音をたてて開いた。
「何かあったら店に電話して! 僕の携帯に転送されるから!」
壬が叫ぶ。春樹は体にぶつかる袋を抱え、走りに走った。
スーパーのロゴが大きく見えるようになるまで、夢中で走った。
次のページへ