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第一話・焔 第二章・4



  粥川さん────?!

「頼む、頼むから信じ」
 粥川の口から鮮血がほとばしった。数人の女性のそばに肩から倒れ込む。
 女性は大きな悲鳴をあげて走っていき、中年の会社員らしき男性が粥川に手を伸ばした。
 が、粥川を殴った男を見て、手を引いて下がった。
「粥川さんよ。眠いこといってても、始まらんだろ」
 暴漢が言い、粥川の胸ぐらを乱暴につかむ。
 男はテラテラした生地の、軽薄な開襟シャツを着ていた。粥川はスーツ姿だ。
 粥川がまた殴られた。苦痛に歪む顔が街の灯りに照らされる。鼻と口から血が出ていた。
「かっ、粥川さん!」
 春樹は人を掻き分けて粥川に近づいた。粥川が目を見開いて春樹を見る。
 男はさらに二発、粥川を殴った。粥川の口から新しい血が吐き出される。
「やめて!! だれ、だれか! 誰か通報してください!!」
 見物人の何人かが急に離れていった。手を差し伸べた中年男はもういない。
「粥川さ……」
「来るな!」
 粥川の毅然とした声に、春樹の足がとまった。
 暴漢が粥川を突き放す。面倒そうに立ち上がり、春樹のほうに向かってきた。
「やめろ! その子は関係ない!」
 粥川が自分を殴った男の脚をつかんだ。片脚の膝から下を両手で抱え込む。
 憤怒の形相で粥川を蹴ろうとした男の肩に、もうひとりの男が手を置いた。
「今日はもういい。行くぞ」
 肩に手を置かれた男が脚を振った。しがみついていた粥川が払いのけられる。
 男は粥川の頭をつかみ、顔を覗き込みながら言った。
「水曜までしか、うちも待てないんですわ。利息だけでも入れてもらえませんと、穏やかに話もできんのですよ」
 妙に丁寧な口調になった男の開襟シャツが、春樹の目前に迫った。
 粥川が真っ青な顔でとめようとするが、今日はもういいと言った男が粥川の腹を蹴った。
 春樹に近づいた男は、上から下まで舐めるように春樹を見ただけだった。
 舗道に倒れている粥川には目もくれず、粥川の腹を蹴った男と共に、路地の奥へと消えていった。
「粥川さん! 大丈夫ですか?!」
 粥川は腹を押さえて立ち上がった。春樹に背を向ける。顔を見られたくないのかもしれない。
 ふたりの暴漢が消えた路地に粥川が進む。春樹も粥川に続いて路地に入った。
「……帰りなさい」
 路地の中にある、さらに細い道で粥川が言った。春樹は無言で首を横に振る。
「帰ってくれ。僕は大丈夫、だから」
 言葉とは裏腹に、粥川は汚れた道にうずくまった。腹を抱えてうめく。
「病院、病院に行きましょう」
 春樹は粥川の手をとった。顔をしかめる粥川が春樹の腕をつかんで立ち上がる。
「あなたはどうして、ここに? ここはあなたの自宅からは離れている。生活用品を買いにきたのでは……ないでしょう。用があるなら早く済ませて、帰りなさい」
「服を取りにきたんです。今日じゃなくても、明日からテストだから放課後に」
 ハンカチを差し出す春樹の手が、静かに押し返された。
「テスト前なら、早く帰らないとだめだ。行きなさ……」
「だめです! 病院、行かないと!」
 春樹は強引にハンカチを手渡した。押し切られて受け取った粥川は、少し困ったような笑顔をみせた。
 粥川の頬にえくぼはできなかったが、春樹は安堵の溜め息をついた。
「病院に行かなければならないケガではない。本当に大丈夫ですよ」
 粥川が歩き出す。少し進み、壁に手をついた。そのまま壁に寄りかかる。顔は青白く、脂汗がはっきり見てとれた。
 確かこの辺りにスーパーマーケットがあったはずだ。薬局も入っていたと思う。
 大きな交差点のほうを見る。建物の一部しか見えないが、スーパーのロゴが光っていた。
「あのスーパーにいてください。一階にファーストフード店があるはずだから、そこに入ってて。薬局もあると思うから」
「僕に構うのは……よしなさい」
 粥川が春樹にハンカチを返そうとした。使わずに渡されそうになるハンカチを、春樹はぐいと押し戻す。
「力になりたいんです。服、この近くの店だから。待っててください! すぐ来ます。どこにも行かないで!」
 春樹は粥川を残し、路地を駆け抜けた。
 薄汚れた壁にもたれる粥川の表情など気にすることなく、真っ直ぐ壬の店に向かった。


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