Cufflinks
第一話・焔 第二章・4
「つ、疲れた」
春樹は一度大きく伸びをして、机に上半身を伏せた。
山が張られたところを復習しただけなのに、疲労感が強い。
スタンドライトを消して時計を見る。六時を過ぎていた。
明日の登校準備をするためにクローゼットを開ける。
『塔崎様の件では、よくやった』
春樹は首を横に振った。火照る頬を手で叩く。
胸の黒いモヤは消えたが、油断すると頭がこんがらがる。
高岡は仕事を抜けてきたと言った。
T大合格経験があるとはいえ、高校生の勉強をみるのは高岡も門外漢だ。
稲見は慇懃無礼な社員だが、高岡に家庭教師の役割をさせるとは思えない。
高岡はSMクラブ経営者だ。暇ではない。万が一頼まれても断るだろう。
つまり、高岡の自由意志で来たのだ。
いつものように勝手に春樹の部屋に上がり込み、学習机をあさり、山を張った。
高岡が腕時計を叩く姿がよみがえる。
春樹から見えないように時計を見た粥川とは、大きく違う。
「ありがとうなんて、言わなきゃよかった」
クローゼットの外側にあるフックには、制服のブレザーとズボンが吊るされている。
和室での悪戯でしわになったので、しわ取りスプレーをかけて吊るしたのだ。
制服のシャツは自分の白い液体で汚れたところを軽く洗い、今は洗濯機の中にあった。
忙しいならテストの山を張るだけにすればいいものを。つい礼を言ってしまったことが悔やまれる。
クローゼット内の箪笥(たんす)から、制服のシャツを出した。足もとに紙袋が当たる。
壬の店の袋だ。昨日買ったボタンダウンシャツが入っている。
このシャツに合わせた上下の服の隠しポケットが、今日までには縫い終わると言っていた。
春樹はもう一度時計を見た。壬の店のカードを見る。日曜の終業時刻は夜の八時となっている。
定期テストが始まると学校は早く終わるが、寄り道をする余裕はない。
高岡が山を張ったのも明日の分だけだ。復習すべき箇所はたくさんある。
用事は今日のうちに済ませたかった。
昨日、壬の前で取り乱したので恥ずかしかったが、壬の服は仕事をする上で必要だ。
携帯電話を持ち、廊下に出た。何気なくリビングを見る。カーテンが揺れていた。
和室であんなことをされたのは初めてだった。
部屋全体が熱気に包まれてしまった気がして、換気していたと思い出す。
窓を施錠しながら、春樹は壬の店に電話をかけた。
あと信号数個で壬の店というところだった。
飲食店や古い雑居ビル群につながる路地から、数人の男の罵声が聞こえた。
春樹は遠巻きにして通り過ぎようとした。
「こらァ! このボンクラ! 待たんかい!」
凶暴そうな男の声に、派手な物音が続いた。ゴミ箱か何かがひっくり返ったような音だ。
その音からひと呼吸おいた後、通行人の波が割れた。女性の悲鳴もする。
路地から転がり出てきたのは、どこか見覚えのある人物だった。
「し、信じてくれ。来週になれば少し入る。それで何とか」
舗道に這いつくばる男に、ボンクラと言った男が何かを投げた。
残飯入りのゴミ袋を投げられた男を見て、春樹の足がとまった。
粥川さん────────?!
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