Cufflinks
第一話・焔 第二章・4
私服に着替えてリビングに入った。高岡はダイニングの椅子に腰かけていた。
「教科書と参考書を置け。筆記用具もだ」
「は、はい」
「明日の教科は何だ。出題範囲は決まっているのか」
「現代文と英語総合、数学Tです。範囲は教えてくれません」
「英語総合?」
眉をひそめる高岡の向かい側に座り、春樹はうなずいた。
「ちょっと変わってるんです。はっきり分かれてるのはリスニングだけです。系統立てた授業、とかで……」
春樹が通う高校は私学の男子校で、他校とは授業内容が少し違う。
国語と英語と数学の三教科は系統教科と呼ばれ、学校独自の教材を使うことも多い。
現代文では入学間もない時期にルポルタージュの読解と作成があり、途方に暮れた生徒は春樹だけではない。
英語にしても、基本的な単語が並んだ次のページに難解な長文問題が突然現れる。
数学になると例題の意味すら理解できない。これで公立校より速く進む。
かろうじて復習ができるのは、授業に出ているからだ。
小学校も中学校もぱっとしない成績だったが、高校に入ってからは授業についていくだけで精一杯になった。
「考えることをしない仔犬ちゃんには、難しそうだな」
高岡が教科書のページを繰り始めた。一冊すべてを読破するのではないかと思うほどに見ていく。
広範囲に渡って目を通し、シャープペンシルで丸印をつけた。書き込みもしている。
英語から手をつけた高岡は、数学、国語と進めた。時おり目を伏せて考え、記憶をたどるような表情をする。
高岡の脇から、春樹はそっと数学Tの教科書を取った。印がつけられたページを見て首をかしげる。
「何がわからない」
参考書を見ながら現代文の教科書に丸印をつけていく高岡が、顔を上げずに言った。
わからないところは全部だが、それを言ったら拳骨をくらうだろう。
「こんな公式、ありましたか……?」
高岡に、数学Tの教科書を開いて見せた。頭に鋭い痛みが走る。全部と言わなくても拳骨をくらった。
「痛いですっ」
「痛いように殴ったから当然だ。基本公式の少し下にある、小さな字を見ろ」
春樹は頭をさすり、教科書を見た。
数学Tで最初に習った公式の下に、小さく別の式が印刷されている。
「基本公式を展開しただけだ。わからないのか」
「……わかりませんでした」
高岡が丸印をつけた例題の横に書き添えた式は、小さく印刷された式だった。
よくよく見ると、小さな式は基本公式を展開したものだとわかる。
「何故その例題でその式を使うかわかるか」
「わかりません……」
溜め息と共に、高岡は作業を終えた。
「基本的なことは理屈を徹底的に理解しろ。覚えるのはそれからだ。数学はいつからわからなくなった」
「中学三年くらいからです」
「本当か」
「……ほんとは、小学校の……分数のへんから……」
もう一発拳骨をくらった。高岡が椅子から立ち上がる。
「とりあえず明日はこれで何とかしろ。俺も現役を離れて久しい。山が外れても恨むな。家庭教師か塾が必要なら社に相談しろ」
スーツのジャケットを着た高岡が、靴をはいて煙草を咥えた。
「あの……」
玄関のドアノブに手をかけた高岡が振り返る。苛立った表情を隠しもしない。
春樹に見せつけるように、腕時計を指で叩いた。
「仕事を抜けてきている。今話さなくてはならんことか」
「い、いいえ」
「ではまたの機会にしろ」
煙草に火をつけ、高岡が玄関ドアを閉めた。一瞬の後、春樹もマンションの廊下に出た。
非常階段を数段下りた高岡に「あのっ」と呼びかける。
「お仕事忙しいのに、来てくれてありがとうございます」
階段の踊り場で高岡が立ちどまった。春樹の顔を見ずに、白い煙を吐く。
「塔崎様の件では、よくやった」
どうしてか、頬が熱くなった。春樹は非常階段の手すりを握った。
「今夜は勉強して早く寝ろ。夕飯も抜くな」
何かに思い当たったように高岡がこちらを見た。にやりと笑う。
「今日からは寝る前の腹筋運動を日課にしろ」
「……! わかりましたっ!」
春樹は頭から湯気を立てて部屋に戻った。
一度だけ振り返ってみたが、高岡の姿も、煙草の煙も消えていた。
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