Cufflinks

第一話・焔 第二章・4


 玄関に、春樹とはサイズ違いの紳士靴がある。
 初めて見る靴だが、持ち主はわかる。唇が寂しいと言わせた男だ。
 春樹は高価そうな靴を睨み、廊下を抜けてリビングに入った。
「ただいま帰……あれっ」
 リビングに凶暴な男がいない。トイレでも使っているのだろうか。
 トイレが面している廊下に戻ったとき、寝室からかすかな物音がした。
 寝室の扉を思い切り開けた。扉が外れてしまいそうな音がした。
「静かに開けろ。帰ったときの挨拶を」
 寝室を物色していたらしい高岡が、平然とした顔で言った。
 ここを自分の家だと思っているような表情だ。いつものことではあるが。
「……ただいま帰りました」
「よろしい」
 高岡は学習机の引き出しに手をかけた。躊躇なく開けて中を見る。
「ちょ、ちょっと。やめてください」
 高岡の腕を引いて抗議するが、簡単に手を払われる。
 鍵付き以外のすべての引き出しを見た高岡は、机の上に重ねてある教科書類をめくった。
「やめてくださいっ。見たいものがあるなら出します。言ってください!」
「稲見さんから電話があった」
「はいっ?!」
 高岡が春樹のベッドに腰を下ろした。脚を組み、鋭い視線で春樹を射貫く。
「勉強がはかどっていないと言ったそうだな。本当か」
「本当です」
 ゆらり、と、高岡が立ち上がった。目も口もとも、笑っていない。
 春樹の背中を冷たい汗が伝った。
(叱られる。殴られる。鞭で打たれる……!)
 春樹は頭を両腕でかばい、床にしゃがんだ。奥歯を噛み締める。
「立って向こうを向け」
「は、はいっ」
 鞭だ。罰を与えるための凶器を持ってきているに違いない。あれで背中をしたたか打つのだ。
 高岡に背中を向けた。膝が震える。噛み締めた歯の間から、情けない音をした呼気が漏れた。
「ひゃあっ!」
 高岡の手が背後から胸に回された。そのまま下に移動する。
(レイプする気なのか)
 抱きすくめられた。体が密着する。下へと動く手は胃の辺りでとまり、ポンポンと弾むように叩かれた。
「塔崎様と何を食べた」
「お、おいしいものです」
 小さな笑い声がした。胃を中心に、高岡の手が春樹の腹を撫で回した。
「おいしいのは何よりだが、もう少し腹筋を鍛えろ」
「え……」
「食べると腹が出るのは、みっともいいものではない」
 高岡の手も体も、すぐに離れた。嘲笑とはいえない程度の笑みを浮かべ、もう一度学習机に向かう。
「っう、ひ、う」
 教科書を開いた高岡が振り返った。春樹がしゃくり上げたからだ。
 叱責されたわけでも、優しくされたわけでもない。
 それなのに、こんがらがったときの涙がこぼれた。球になって落ちていく。
(どうして泣くんだ、こんなことで)
 腹が出ていると言われただけではないか。食べて膨らんだだけだ。一時的なものだ。すぐに戻る。
 体型を気にする女の子でもないのに、こんなことで泣くことはない。
「何を泣いている」
 教科書が伏せられた。高岡が近づいてくる。
 春樹は自分の寝室の床に足をとられながら、扉に向かった。
 高岡の手に鞭はなく、平手打ちをするような様子もない。春樹が廊下に出てリビングに入っても、一定の距離を保ったまま追ってくるだけだ。
 追いつめられた春樹の肩が、和室のふすまに当たった。転がるように和室に入る。
 高岡が入ってこないようにふすまを閉めようとした。びくともしない。ふすまの端を高岡が押さえていた。
「答えろ。何を泣いている」
 リビングを背にした高岡の双眸が、強く光った。
 春樹は手の甲で顔をこすり、喉に流れてくる涙を飲み込んだ。
「と、塔崎様と食事したこと、知ってるなら、僕がお店やプレゼントを決めたことも、知ってるんでしょう? 大それたことして、って叱るなら、叱ってください。こんなふうにからかわれるの、嫌なんです」
「からかう?」
「お腹、触ったじゃないですか。出てるって」
 春樹を見下ろす男の唇が、少しだけ開いた。
 次の瞬間、ピシャリと音がした。
 高岡が後ろ手でふすまを閉め、和室に踏み込んできたのだ。光る目が細められる。
 悪事を働く直前の空気が、狂犬の周囲を覆っていた。


次のページへ